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クライシュ族 : ミニ英和和英辞書
クライシュ族[くらいしゅぞく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


クライシュ族 : ウィキペディア日本語版
クライシュ族[くらいしゅぞく]
クライシュ族英語:''Quraysh'', ''Quraish''、アラビア語: قريش : Qurayš. "Quresh", "Quraysh", "Koreish", "Coreish"、トルコ語: Kureyş)は4世紀頃からメッカ近郊を勢力圏として遊牧および交易を行っていたアラブ人部族であり、イスラム教の創始者である預言者ムハンマドの出身部族として知られている。その一方でクライシュ族はムハンマドの布教活動を迫害し続けたイスラームの敵対者でもあり、クルアーンの中にもクライシュ族はしばしば登場する。その系譜は紀元前よりアラブ世界をと二分していたにまで遡ることができ、アドナーン族はアラム人がアラブ化した民族であるとされている。クライシュとはサメを意味するキルシュという語が元であり、他者を捕食するが自身が捕食されることはないサメの圧倒的な強さを指し示している〔アル=マハッリー、アッ=スユーティー (2006) 622頁。〕。現代においても、ヨルダン王国モロッコ王国などではクライシュ族の末裔を国王としている。
==ジャーヒリーヤ時代==
クライシュ族を含むアドナーン族の系譜はアダムにまで遡ることができるとされており、旧約聖書に登場するイシュマエルの長男ナビトの末裔であるアドナーンを祖としている。アドナーン族はアラビア半島の北部から西部、中央部を勢力圏として遊牧を行っていたアラム人の部族であり、アラブ化したアラブ族と呼ばれる。アドナーン族の主要な支族の一つであるムダル族のうち、預言者エリヤの孫フザイマの子であるアル=ナドル・ブン・キナーナを祖とするキナーナ族から分岐したのがクライシュ族であり、キナーナの曾孫であるフィフル・ブン・マーリク・ブン・アル=ナドル(クライシュ)がクライシュ族の直接の祖である。キナーナ族はアラビア半島の紅海沿岸地域(ヒジャーズ)に大きな勢力を持っており、その支族であったクライシュ族も4世紀頃にはヒジャーズ地方のメッカ周辺で遊牧生活を送っていたと考えられている〔〔〔。
5世紀末、当時メッカおよびカアバ神殿を支配していたのはアラビア半島南部のイエメンからメッカに移住してきたカフターン族の支族であるフザーア族であったが、フザーア族の首長の娘婿となったクライシュ族のクサイイによって、フザーア族に代わりクライシュ族がメッカの支配権を獲得した。クサイイはムハンマドから見て5代前の祖先に当たり、クサイイが支配権を奪取したマッカにクライシュ族を呼び寄せ定住し始めたことによって、クライシュ族は部族集団としてまとまりを持ち始めたとされる〔小杉 (2009) 115-116頁。〕。その後もクライシュ族とフザーア族は同盟関係を継続しており、後の570年頃に起こったエチオピア軍によるメッカ侵攻の際には共同でエチオピア軍に対抗している〔。カアバ神殿では偶像崇拝が行われており、当時の神殿の周囲には360におよぶ偶像が祭られていたとも言われている〔小杉 (2009) 116頁。〕。代表的な神としてアッラート、ウッザー、マナートなどの神々があり、クライシュ族は明けの明星の神であるウッザーを氏神にしていた。クサイイの孫であり、ムハンマドの3代前の曽祖父に当たるハーシムの時代になると、サーサーン朝ペルシア東ローマ帝国の抗争が激化し始め、アラビア半島においても沿岸地域の海洋ルートを中心に二大国が勢力を伸ばしていた〔。そのような状況下においてハーシムはイエメンからマッカを経てシリアにいたる交易路を開拓し、冬にはインド洋航路によって東南アジアやインドからもたらされる香辛料をイエメンで仕入れメッカへと持ち帰り、夏にはメッカからシリア、地中海地域へと香辛料を運び地中海地域の特産品を仕入れるキャラバン交易を成功させマッカは発展していった。このような陸路による貿易においては通商路の安全確保が必要であったため、ハーシムは周辺のアラブ諸部族との間に盟約を結んでいき、メッカを中心とした緩やかな部族連合が形成されていった。また、ハーシムは交易ルートの支配権を確立するために、東ローマ帝国から商業特権を得たり、交易ルート上に位置するガザにも拠点を作ったりといった活動も行っており、このようなハーシムの貢献によってハーシムの一門(ハーシム家)はクライシュ族の中でも重要な位置を占める名門となっていった〔〔小杉 (2009) 116-117頁。〕。ハーシムの息子であるアブドウルムッタリブの時代の570年頃、東ローマ帝国の後援を受けたエチオピア軍がメッカに侵攻したが、軍事力に勝っていたにもかかわらずメッカに入城することなく壊走している。この戦いはムハンマドが生まれた年に起こったと考えられておりクルアーンの章に取り上げられているが、エチオピア軍の壊走の理由としては神の奇跡の描写から天然痘の蔓延によるのではないかと考えられている〔小杉 (2009) 117-118頁。〕。またこのころ既にクライシュ族は上下関係ができており、マッカの中心部にすむ家柄の良い「谷間のクライシュ」と山腹に住む「外側のクライシュ」とに区別されていた。「谷間のクライシュ」はハーシム家ウマイヤ家他合計12の氏族で構成された。
繁栄の一方で、マッカ内での貧富の差を生み出し部族としての連帯感が失われ、社会的矛盾をクライシュ族は抱えるようになる。これが預言者ムハンマドの誕生と新宗教イスラム教拡大の基盤になったと一般に言われるが、他方この交易はあくまで安い商品を運んだローカルなものであり、したがって一般に言われているような格差の開きに伴う価値観の変化はなかったと反論する声もある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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