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クライド・ベルコート : ミニ英和和英辞書
クライド・ベルコート[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

クライド・ベルコート : ウィキペディア日本語版
クライド・ベルコート[ちょうおん]
クライド・ハワード・ベルコートClyde Bellecourt、ニーゴヌェウェイウェドゥン、1936年5月8日生)は、アメリカインディアンの民族運動家。
==来歴==
1936年5月8日、ミネソタ州ホワイトアース・インディアン保留地 で、オジブワ族アビ氏族に属するチャールズとアンジェリン夫妻の12人の子供のうち7番目の息子「ニーゴヌェウェイウェドゥン」(オジブワ語で「嵐の前の雷」という意味)として生まれた〔「AIM」公式サイト〕。彼の所属するバンドはミネソタ最大で最貧困と呼ばれるものだった。父チャールズは第一次世界大戦で欧州で戦った出征米軍兵で、戦傷のため働けなかった。家族は小さな家に住み、非常に貧しかった。 兄ヴァーノン・ベルコート(2007年死去)もクライドとともにインディアン民族運動家となっている。
アメリカインディアン運動」(AIM)の公式サイトは、クライドについて次のように紹介している。

1945年、9歳のときに保留地にあったベネジクト派の厳格なミッションスクールに入学させられたが、学校でインディアンが「殺人者」、「野蛮人」として教えられていることに強く反発し、結局中退した。学校でクライドはジョージ・ワシントンを「国の父」だと教えられ、敬意を払うよう強制されたが、「とても父親とは考えられない」、と答えて反発した。
彼は現在でもワシントンを「ボーイ・ジョージ」と呼んでおり、「この男は金髪のカツラを被って頬に紅をつけ、フリルのついたシャツと、小さな絹のストッキングとハイヒールの靴を履いている。彼らはこの男を“国の父親だ”と私に言うんだが、まあ、この男は私の父や祖父にはとても見えないな」と答えている〔Biographicon“ Clyde Bellecourt”〕。クライドはミネソタ州レッド・ウィングの軍隊式の少年院に入れられ、三年間をそこで過ごした。
1952年、16歳のときに家族がミネアポリスに転居する。1957年、ハリー・デイビスの下でボクシングを習い、「ゴールデングローブ」に出場。2勝1敗の記録を残したが、素行不良で聖クラウド成年矯正施設に入れられた。1961年、25歳の誕生日に窃盗の罪でミネソタ州スティルウォーターの刑務所に収監された。
当時、ミネソタ州の刑務所の囚人の1/3以上はインディアンだった。白人なら軽微な罪状で済むことでも、インディアンはすぐに懲役刑となった〔『Ojibwa Warrior: Dennis Banks and the Rise of the American Indian Movement』(Dennis Banks,Richard Eadoes,University of Oklahoma Press.2004)〕 。刑務所でクライドは「名誉の寮」と呼ばれていた独房に入れられて希望を失ってしまい、ハンガーストライキを始めたが、同じオジブワ族のエディー・ベントン・バナイが彼のまとめ役としての才に注目して刑務所に掛け合い、クライドは独房から出るわりに発電所での労働更生プロジェクトに参加し、ボイラー技士の訓練を受けることになった。エディーはクライドに、オジブワ族の歴史を扱った本を貸してくれた。クライドは刑務所で仲間たちとインディアンの問題について討論するようになり、エディーと二人で刑務所内に「インディアン研究プログラム」を結成し、128人のインディアン囚人中82人の参加者を集め、勉強会を開くようになった。当時を振り返ってクライドはこう語っている。「我々はこの国で最初の、本当のインディアンの研究プログラムを持っていたと思う。人は『アメリカインディアン運動』が1968年に始まったというが、私にとっては1962年にスティルウォーターの穴蔵の中で始まっているんです〔Peter Matthiessen、『In the Spirit of Crazy Horse』〕。」
1964年、釈放されミネアポリスに戻る。刑務所の研究プログラムはトム・ジョーンズらに引き継がれた。クライドはミネアポリスでインディアン組織「赤いゲットーの人々」(Red Ghetto People)を組織した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「クライド・ベルコート」の詳細全文を読む




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