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越中褌(えっちゅうふんどし・越中ふんどし)とは、ふんどしの一種。長さ100cm程度(3尺)、幅34cm程度(1尺)の布の端を筒に縫い、その筒に紐を通した下着である。一部ではクラシックパンツ、サムライパンツとも呼ばれている。医療用の下着であるT字帯も越中褌の一種。禊(水行)の時に使われる場合が多い他、一部の裸祭りでは六尺褌に代って、こちらが使われる場合がある。 その着装法は、『守貞漫稿』によれば、「紐を通したる方を背にし、紐を前に結び、無レ紐方を前の紐に挟む也」という。 == 概要 == 名前の由来には越中守だった細川忠興が考案者とする説〔宮武外骨編『日本擬人名辞典』附録10頁 (成光館,1930)〕、大阪新町の越中という遊女が考案したとする説〔など、複数の説がある。 江戸時代にも存在していて、隠居した武士、肉体労働を伴わない医者や神職、僧侶、文化人、商人の間で用いられていた。 越中褌が本格的に普及したのは明治末期頃から。1873年(明治6年)に徴兵令が制定され、徴兵された成人男子に軍隊が官給品として支給(貸興、給興)し、使用を義務付けたことで一般化するようになった。兵役除隊後、前垂れが陰部を隠し、軽くて清々しいとの使用感や、着脱が容易で布の使用が少ない経済性もあり、若者を中心に全国に普及した。それまでの六尺褌に代わり日本人成人男性の主な下着に代わった。 越中褌は簡易なものであることから、戦前では市中で販売されるよりも自家で縫製して使用するものが多かった。 大正期から太平洋戦争終了時までの間は日本人成年男子の主な下着は「越中褌」となり、越中褌が「褌」や「男性下着」の代名詞となる程、越中褌の全盛期を迎えた。 戦後は、日本人の洋装化が一段と進んだこと、敗戦で旧文化が否定される風潮になったこと、日本の工業化の進展で農村部から都市部に人口の移動が起こり、核家族化が進行して「褌祝」の私的祭事に象徴される褌継承の文化が断絶したこと、女性の社会進出で家事が簡略化されて自家で縫製する機会がなくなったこと、製造販売する業者も少なく店頭に並ばず、入手性に難があったこと、ブリーフ、トランクス等の新しい下着が廉価で出現して、機能性だけでなくファッション性のある下着が若者を中心に普及した影響を受けて、褌の使用人口は大幅に減少して、年配者が使用する過去の下着のような存在となった。このため、褌の用語は卑語のように扱われ、「下帯」、「締め込み」などの用語で代用されるようになるに至った。 戦後、何度かマスコミに取り上げられて一時的なブームが起こったことがあったが、定着することは無く、男性下着売り場の一角を占めるに至らない。 これは越中褌が究極の形状であることから、昔からデザインの変化がないことで、材質や色か柄でしか商品として差別化ができないこと、白色が定番の越中褌では色物や柄物では極端に需要が少なく採算に合わないこと、個人でも縫製できるものであるため、単価も安く利益率が低いこと、他の下着と比べて需要の伸びが大きく見込めず、設備投資に見合う大量販売が見込めないことなどから大手下着製造業者が積極的に手掛けにくいニッチ商品であることが、大手流通網に乗らず、広く店頭に並ばない理由と推測される。 一部のデパートや呉服店で販売されているに過ぎないが、近年ではインターネットの出現でインターネット通販を用いた褌製造販売専門業者などが生まれ、容易に購入できるようになり、ブリーフやトランクスしか知らない世代が「褌」を新鮮な下着として認識し始めたことで、新たな購買層となっているようだ。 パンツのようにゴムを使わず、高温多湿の日本の気候で褌の持つ機能や効能を支持する愛好家は現在でも存在する。虚飾性を排し、単純な一枚の布で全ての機能が完結する「潔さ」が、日本人が古来から持つ「美意識」と共通するものがあり、日本の古典的な理想の男子像にも例えられる。 越中褌の独特の形状から、白い越中褌を締めた東洋人男性ならば「日本人男性」であるとの暗黙知が日本人にあり、映画、テレビなどの劇中で、しばしば日本人男性を示す象徴として用いられたりしている。 褌を着用することで、虚飾を排し、時流に流されることなく本質を求道する理想の日本人男子像を具現化するものとして、褌にこだわりを抱く愛好家は少なくない。一部下着メーカーの越中褌の製造出荷量は、戦後から現在でも一定で、しかも相当数の販売数を保っていることからも推測される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「越中褌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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