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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
クラッシャー・リソワスキー(Crusher Lisowski)のリングネームで活躍したレジナルド・リソワスキー(Reginald "Reggie" Lisowski、1926年7月11日 - 2005年10月22日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ウィスコンシン州サウス・ミルウォーキー出身のポーランド系アメリカ人。 殴る・蹴るの喧嘩戦法を主体とした粗暴なラフファイターとして、ヒールのポジションで狂乱ファイトを繰り広げた後、キャリア途中よりベビーフェイスに転じ、主戦場のAWAを中心に人気を博した〔。ディック・ザ・ブルーザーとの元祖・極道コンビでの活躍も知られ、日本では「粉砕者」「ぶっ壊し屋」などの異名を持つ〔『世界名レスラー100人伝説!!』P132-133(2003年、日本スポーツ出版社、監修:竹内宏介)〕。 == 来歴 == ハイスクール時代はアメリカンフットボールのフルバックで鳴らし、第二次世界大戦でドイツに駐留中は陸軍でレスリングを学んだ〔。終戦後、レンガ積み工やハイウェイ・パトロールなどの職を経て〔『THE WRESTLER BEST 1000』P16(1996年、日本スポーツ出版社)〕、1949年にプロレス入り〔。レジー・リソワスキー(''Reggie Lisowski'' )の名義で地元のミルウォーキーやシカゴなどの中西部を主戦場に、1953年11月3日にはコロラド州デンバーにてタイトル初戴冠となるロッキー・マウンテン・ヘビー級王座を獲得、翌1954年2月16日にパット・オコーナーに敗れるまで保持した。 その後、アート・ネルソンとの金髪コンビでの活動を経て、1955年11月19日にはミルウォーキーにてルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に初挑戦している。1956年からは、後にアート・ネルソンの相棒にもなるスタン・ホレック(スタン・ネルソン)がスタン・リソワスキーと改名して新パートナーとなり、ギミック上の兄弟チームである「リソワスキー・ブラザーズ」を結成。以降、1950年代後半はリソワスキー兄弟として中西部から深南部、北東部、カナダまでNWAの主要テリトリーを転戦。各地区認定のNWA世界タッグ王座を再三獲得し、カナダのトロントではホイッパー・ビリー・ワトソン&ユーコン・エリックなどのチームとカナディアン・オープン・タッグ王座を争った。 1960年代に入るとスタン・リソワスキーとのコンビを解消し、クラッシャー・リソワスキー(''Crusher Lisowski'' )またはザ・クラッシャー(''The Crusher'')と名乗ってシングルプレイヤーに転向。WWWFの前身団体キャピトル・レスリング・コーポレーションでは1960年から1961年にかけて、ブルーノ・サンマルチノ、アントニオ・ロッカ、アーノルド・スコーラン、ベアキャット・ライト、ヘイスタック・カルホーン、レッド・バスチェン、マーク・ルーイン、プリモ・カルネラ、ジョニー・バレンタインらと対戦し、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにも出場した。 1963年2月15日、ネブラスカ州オマハでバーン・ガニアを破り、オマハ版の世界ヘビー級王座を獲得。同年7月9日にもミネソタ州ミネアポリスにてガニアからAWA世界ヘビー級王座を奪取するが、同月20日にガニアに敗れて二冠を失う。その後、ガニアはオマハ版の王座をAWA王座に統合、クラッシャーもAWAを主戦場とし、同年11月29日にガニア、1965年8月21日にマッドドッグ・バションを破り、AWA世界ヘビー級王座には通算3回戴冠している〔。 また、従兄弟ともされていた同タイプのディック・ザ・ブルーザーとタッグチームを結成し、1963年8月20日にAWA世界タッグ王座を獲得。1960年代中盤からはブルーザーと共にベビーフェイスのポジションに回り、ラリー・ヘニング&ハーリー・レイスと抗争を繰り広げた〔。ブルーザーが主宰していたインディアナ州インディアナポリスのWWAでは、1967年1月21日にクリス・マルコフ&アンジェロ・ポッフォのデビルズ・デュオからWWA世界タッグ王座を奪取。1968年12月28日にはシカゴにて、当時AWAとWWAの両世界タッグ王者チームだったミツ・アラカワ&ドクター・モトを破り、二冠を手中にしている〔〔。 その後もブルーザーとのコンビでは、1960年代末から1970年代前半にかけて、マッドドッグ・バション&ブッチャー・バションのバション・ブラザーズ、ダスティ・ローデス&ディック・マードックのテキサス・アウトローズ、ブラックジャック・マリガン&ブラックジャック・ランザのザ・ブラックジャックスなどの強豪チームと抗争を展開。1975年8月16日にはニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスを破り、ブルーザーと組んでの通算5回目のAWA世界タッグ王座戴冠を果たす〔。同年9月20日にはインディアナポリスにてジャック・グレイ&ザリノフ・ルブーフのザ・リージョネアーズからWWA世界タッグ王座も奪取、再び二冠王となり、WWA王座は翌1976年3月13日にオックス・ベーカー&チャック・オコーナー、AWA王座は同年7月23日にブラックジャック・ランザ&ボビー・ダンカンに敗れるまで保持した〔〔。 王座陥落後はブルーザーとのコンビを一時解消してAWAに定着し、1977年2月13日にはアンドレ・ザ・ジャイアントと組んで新王者チームのランザ&ダンカンに挑戦。以降もマッドドッグ・バション、バロン・フォン・ラシク、スーパー・デストロイヤー、アンジェロ・モスカ、ロード・アルフレッド・ヘイズ、スーパー・デストロイヤー・マークIIらと抗争し、ニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座にも再三挑戦した。1979年はジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングにも参戦、9月21日にアトランタのオムニ・コロシアムにてトミー・リッチと組み、イワン・コロフ&オレイ・アンダーソンからNWAジョージア・タッグ王座を奪取している。 1980年代初頭は、フェイスターンした旧敵のマッドドッグ・バションやバロン・フォン・ラシクとベテラン・コンビを組み、当時のAWA世界タッグ王者チームだったジェシー・ベンチュラ&アドリアン・アドニスのイースト・ウエスト・コネクションに再三挑戦。同じく「クラッシャー」を名乗るジェリー・ブラックウェルとも抗争を展開した。1982年より一時リングを離れるも、1984年に復帰し、5月6日にグリーンベイにてバロン・フォン・ラシクと組んでジェリー・ブラックウェル&ケン・パテラを破り、8年ぶりにAWA世界タッグ王座に返り咲く〔。8月25日にラスベガスでロード・ウォリアーズに奪取されるが、58歳での最後のタイトル戴冠を果たした〔。 その後もAWAのビッグイベントに単発的に出場し、ブルーザーとのコンビでロード・ウォリアーズやファビュラス・フリーバーズなど、当時を代表する新世代のタッグチームとも対戦〔。1985年9月28日にシカゴのコミスキー・パークで開催された "AWA SuperClash" における、ブルーザー&バロン・フォン・ラシクと組んでのイワン・コロフ、ニキタ・コロフ、クラッシャー・クルスチェフのザ・ラシアンズとの6人タッグマッチを最後にAWAを離れた。 1986年10月5日、AWAの主要都市セントポールで行われたWWFのハウス・ショーに、覆面レスラーのクラッシャー・マシーン(''Crusher Machine'')に扮してサプライズ登場。スーパー・マシーン&ビッグ・マシーンのWWF版マシーン軍団の一員として、AWA時代からの因縁を持つマネージャーのボビー・ヒーナン率いるファミリーとの6人タッグマッチに出場した。試合後は覆面を脱いで素顔に戻り、同月23日にはハルク・ホーガンと組んでヒーナン・ファミリーのビッグ・ジョン・スタッド&キングコング・バンディと対戦。以降も主戦場としていた中西部地区におけるWWFの興行にスポット参戦し、1987年1月23日には負傷したダイナマイト・キッドに代わってデイビーボーイ・スミスのパートナーとなり、ブレット・ハート&ジム・ナイドハートのハート・ファウンデーションが保持していたWWF世界タッグ王座に挑戦。同年3月16日には再びホーガンと組んでカマラ&ホンキー・トンク・マンの異色コンビと対戦し、11月16日にはルー・テーズやエドワード・カーペンティア、ボボ・ブラジル、ジン・キニスキー、キラー・コワルスキーなどのオールドタイマーによるバトルロイヤルに出場した。 1988年2月15日、ネブラスカ州オマハにおけるケン・パテラと組んでのデモリッション(アックス&スマッシュ)とのタッグマッチが記録としての現役最後の試合となり〔、以降は1989年までWWFに時折登場していた〔。その後は1998年5月31日、ミルウォーキーで開催されたPPV『オーバー・ジ・エッジ』にマッドドッグ・バションと共に登場、レジェンドとして迎えられ、当時ヒールのポジションにいたジェリー・ローラーとも絡んだ〔。 2005年10月22日、故郷のサウス・ミルウォーキーにて脳腫瘍のため死去。〔。晩年は股関節および膝関節の置換手術や心臓のバイパス手術など、複数の手術を受けていた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クラッシャー・リソワスキー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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