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クラフトワーク( クラフトヴェルク・クラフトヴェァク、発電所の意)は、ドイツの電子音楽グループ〔70年代後半以降のラルフ・ヒュッターはクラフトワークの音楽を好んで“ロボ・ポップ”と称した他、やがて20世紀のクラシック、またはインダストリアル・フォークソングとも称している パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』 美馬亜貴子/佐久間秀夫 製作 THE KRAFTWERK CHRONICLE 年表 TOCP-88224〕マルチメディア・エレクトロニック・プロジェクト〔2003年の来日時のラルフのインタビューより、ストレンジ・デイズ2004年No.55 P69。〕である。長年に渡り多くのアーティスト達にも多様な影響を与え〔音楽ライターでレコード制作者のパスカル・ビュッシーは1994年の著書『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』の前書きで「クラフトワークに影響を受けたグループがあまりに膨大な数にのぼるので、その名を列挙したり、インタビューをするのがとても無理なことが分かった」と記している〕、ニューヨーク・タイムズは「エレクトロニック・ダンス・ミュージックのビートルズ (the Beatles Of Electronic Dance Music)」と評している〔By NEIL STRAUSS: ''Call Them the Beatles Of Electronic Dance Music'' 1997〕。 == 来歴 == === 結成と初期 === 1960年代半ば、西ドイツのデュッセルドルフ近郊 レムシャイトの芸術アカデミーでクラシック音楽の教育を受けていたラルフ・ヒュッターとフローリアン・シュナイダーがデュッセルドルフ音楽院の即興音楽クラスで出会い〔植物園で出会ったという。 ストレンジ・デイズ2004年No.55 P66 クラフトワーク・ストーリー 〕、インダストリアル・ミュージックへの関心からジャム・プロジェクトOrganisation等〔クラフトワークと親しいジャーナリスト ポール・アレッサンドリーニは「面白いことに二人は上層中産階級の出なんだ。彼らは大ブルジョワ出身のインテリで、それとは違った世界を発見しようとしたんじゃないか。それでロックの世界に入り込んでみようとしたわけだ」と推察している パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P23〕を経て1970年に結成する。当時、英米によってもたらされた文化や音楽に安易に染まる事を良しとしなかったクラウトロック(ジャーマン・ロック)の一グループであった彼等は戦後育ちのドイツ人としての自覚〔ラルフや後に加入するカールは「クラシックや行進曲、英語で歌われるポップスでは無く自分たちの音楽を持とうと思った」と事あるごとに語っている。最もそれらの音楽を否定してはおらず、70年代半ば以降ラルフは「僕たちがやっているのはクラシックだから、曲もクラシックになる」と発言していた。また後にレコード会社で彼らを担当することになるマクシム・シュミットは「グループとしての力、クラシック性、強さ、全てがクラフトワークの中にはあった。それはラルフによって与えられたものだ」と発言している パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P143他〕〔クラフトワークの音楽の根底には伝統的なドイツ特有のリズム感があるとも発言している シンコーミュージック ディスク・ガイド・シリーズ#016テクノ・ポップ 美馬亜貴子監修〕を強く持っており、ケルン出身のバンドカンとも親交があった(カンの初公演はクラフトワークの楽器を借りて行われた〔パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P30〕)。東ドイツのデューナモ・ドレスデン(ドレスデンの発電機、Dynamoの名称は総合スポーツクラブに用いられた)というサッカークラブの名前に触発されグループ名〔パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P40〕もあくまでドイツ語〔ドイツのグループでありながら英語で名乗るタンジェリン・ドリームなどとの違いが意識されていた。ラルフ曰く「ドイツ語はとてもメカニカルで、それを音楽の基本構造として使っている」パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P42 また全盛期から現在までライヴの開幕時に使われる如何にもロボチックな人工音声によるアナウンスも主にドイツ語が使用される〕で表現している。リズム・マシンやオルガン、電気フルート等を使った彼ら初期のインダストリアルで即興・実験的な作風〔ピンク・フロイドからの影響をインタビュアーに指摘されたラルフは「逆だ。彼らこそフランスの新古典主義音楽やドイツの電子音楽から多くを得ている」と返した パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P33 〕はバズコックスやスージー・アンド・ザ・バンシーズ にも影響を与えた〔パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P114〕。当時の主な演奏会場は大学や美術館〔40年後にニューヨーク近代美術館(MoMA)で回顧展が行われた事について結成当時からアート・シーンに関わりがあった事にラルフはインタビューで言及している他、フローリアンは「自分達の友人には音楽家よりも医者やコンピューターの専門家、心理学者、作家、画家など他分野の人の方が多い」と発言した事もある パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』〕などであった。幾度かのメンバーチェンジを経るも、結局ラルフとフローリアンが中心になり3枚のアルバムを制作する。アルバムジャケットのデザインを自ら手掛ける他、楽器の改造・開発〔楽器の発案や人工音声の制作を得意としたフローリアンについて後に加入するカールは「音楽家というよりはアーティストに近い」と形容している。またグループの共同作業者であったエミール・シュルトは「常に引っ張り役だったのはフローリアンで、新しい展開をする段になると、フローリアンが物事を前に進めた。気性からいって彼はみんなと速度が違っていた。音楽に磨きがかかっていたら、それはフローリアンのおかげだ」と発言している パスカル・ビュッシー『クラフトワーク―「マン・マシーン」とミュージック』P142他〕等、グループ初期から現在に至るまでのDIY精神はこのグループを知る上で欠かせない特徴と言える。この時期のメンバーで、脱退したクラウス・ディンガーとミヒャエル・ローター(続けて加入するヴォルフガング・フリューア〔主にザ・フーなどに影響されていたウォルフガングは、当時長髪だったラルフの外見にドアーズからの影響を感じたと著書ロボット時代で振り返っている〕と以前同じバンドのメンバーであった)は後のクラフトワークとは別の方向性で同じ工業都市デュッセルドルフの一面を表現しクラウトロックを代表するグループの一つとなるノイ!を結成する事になる。この時代の楽曲は70年代半ばを過ぎてからは全く演奏されなくなり、正規版のCDも存在しない〔2013年のインタビューでラルフの口から「当時のアルバムはコレクター向け」と位置付けられた 月刊rokin'on MAY2013 P93〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クラフトワーク」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kraftwerk 」があります。 スポンサード リンク
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