翻訳と辞書
Words near each other
・ クラレンス・S・キャンベル・ボウル
・ クラレンス・アダムズ
・ クラレンス・ウィリアム・ネルソン
・ クラレンス・エドワード・ダットン
・ クラレンス・オールドフィールド
・ クラレンス・キング
・ クラレンス・キングスバリー
・ クラレンス・クラーク
・ クラレンス・クレモンズ
・ クラレンス・グッドソン
クラレンス・グリフィン
・ クラレンス・ゲイトマウス・ブラウン
・ クラレンス・シードルフ
・ クラレンス・ジョーンズ
・ クラレンス・ジョーンズ (野球)
・ クラレンス・スタイン
・ クラレンス・センター
・ クラレンス・セードルフ
・ クラレンス・ダロウ
・ クラレンス・チェンバレン


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

クラレンス・グリフィン : ミニ英和和英辞書
クラレンス・グリフィン[ふぃん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

フィン : [ふぃん]
 【名詞】 1. fin 2. (n) fin

クラレンス・グリフィン : ウィキペディア日本語版
クラレンス・グリフィン[ふぃん]
クラレンス・グリフィンClarence Griffin, 1888年1月19日 - 1973年3月28日)は、アメリカカリフォルニア州サンフランシスコ出身の男子テニス選手。1910年代後半にダブルスの名手として活躍し、全米選手権の男子ダブルスで1915年1916年1920年に3度優勝した選手である。フルネームは ''Clarence James Griffin'' (クラレンス・ジェームズ・グリフィン)といい、“Peck”(ペック)という愛称で呼ばれた。著名なエンターテイナーのマーヴ・グリフィンのおじとしても知られる。右利きの選手。
グリフィンは1913年、25歳という比較的遅い年齢でテニス界に登場した。彼は全米選手権の男子ダブルスで1915年1916年1920年の3度優勝したが、パートナーはすべてビル・ジョンストンであった。シングルスでは1916年のベスト4が自己最高成績で、この準決勝ではリチャード・ウィリアムズに 3-6, 3-6, 3-6 のストレートで完敗した。当時は第一次世界大戦の戦時中であり、ウィンブルドン選手権デビスカップなどのイベントは開催が中断されていたが、全米選手権だけは戦時中も途切れることなく続行された。
第一次世界大戦が1918年11月に終結した後、ウィンブルドン選手権やデビスカップは1919年から開催が再開された。終戦の翌年、グリフィンは1919年にキャリアで唯一のウィンブルドン選手権出場を果たしたが、シングルス2回戦敗退に終わった。1920年、グリフィンとビル・ジョンストンは4年ぶり3度目の全米選手権男子ダブルス優勝を果たす。グリフィンはその後も全米選手権に断続的な参加を続け、1931年に43歳で最後の出場をした。なお、彼はデビスカップのアメリカ代表選手として参加する機会はなかった。
クラレンス・グリフィンは1915年1月にフィリピンマニラで行われた「東洋選手権大会」で日本熊谷一弥と対戦したことがあり、日本における「硬式テニス」の黎明期に関わった選手の1人でもある。当時「全米テニスランキング」6位につけていたグリフィンは、東洋選手権大会のシングルス決勝で熊谷に敗れて準優勝になった。ダブルス決勝では、グリフィンとウォード・ドーソンの組が熊谷と三神八四郎のペアを破り、熊谷の単複優勝を阻止した。(下記参考文献に挙げた岡田邦子著『日本テニスの源流 福田雅之助物語』では、大会名が「カーニバル祭トーナメント」と記されている。)
1970年国際テニス殿堂入り。殿堂入りの3年後、クラレンス・ジェームズ・グリフィンは1973年3月28日カリフォルニア州サンタバーバラにて85年の生涯を終えた。
== 全米選手権の成績 ==

* 男子ダブルス:3勝(1915年・1916年・1920年) [パートナーはすべてビル・ジョンストン]

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「クラレンス・グリフィン」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.