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クラレンス・ハウ : ミニ英和和英辞書
クラレンス・ハウ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


クラレンス・ハウ : ウィキペディア日本語版
クラレンス・ハウ

クラレンス・ディケーター・ハウ(、、通称はC・D・ハウ、1886年1月15日 - 1960年12月31日)は、カナダ自由党を代表する強力な閣僚である。カナダ首相ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キングとルイ・サンローランの内閣で1935年から1957年の22年間を連続して閣僚として務めた。カナダ経済を農業基盤のものから工業基盤のものに変換させた功績者とされている。第二次世界大戦のとき、戦争遂行への関わり方が広範なものだったので、「全事項大臣」という綽名を貰った〔"The War Economy and Controls: C.D. Howe." ''Canadian War Museum. Retrieved: 6 August 2013.〕。
アメリカ合衆国マサチューセッツ州に生まれ、若い時にダルハウジー大学で教授となるためにノバスコシア州ハリファックスに移転した。カナダ政府のために技師として働いた後、自分の会社を立ち上げ、裕福な者となった。1935年、当時野党になっていたカナダ自由党党首マッケンジー・キングから誘われてカナダ下院議員候補者となった。その選挙で自由党が大勝し、ハウも議員になった。マッケンジー・キングはハウを閣僚に指名した。その地位に有って、カナダ放送協会やトランス・カナダ航空(現在のエア・カナダ)など多くの新事業設立に関わった。1939年に第二次世界大戦が始まると、カナダの戦争遂行のために重要な役割を演じ、戦時事業にあたらせるために多くの会社重役を採用した。
ハウは自分の提案に対して必要な議会における議論には忍耐が無かったので、あまり友人が出来なかった。野党からはその専制者的な行動を非難されることが多かった。自由党政権が20年間を超えたとき、自由党とハウは傲慢と見られるようになっていた。1956年、パイプライン議論について政府が議論打ち切りにしようとしたとき、下院で大いに問題となった。1957年の総選挙で、野党党首のジョン・ディーフェンベーカーからハウの行動と政策が問題とされた。ハウはその選挙区で厳しい挑戦を受けたが、自由党の主要指導者として他所で演説を行うことが期待された。この選挙でハウは落選し、ディーフェンベーカーが首相となり、ほぼ22年間続いた自由党政権が終わった。ハウは民間事業に戻り、多くの会社の役員を引き受けた。ハウは1960年12月に心臓まひで突然死した。
== 初期の経歴と教育履歴 ==
クラレンス・ディケーター・ハウは1886年1月15日に、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ウォルサムで生まれ育った。ハウ家は土地で認められた家であり、父のウィリアム・ハウは地元の政治に関わっていた。政治的なことをしていないときは、大工であり、家屋を造っていた。クラレンスの母はメアリー・エマ(旧姓ヘイスティングス)であり、教師であり、景気の良い農園主の娘だった。その農園でクラレンスは子供時代の夏を過ごした。
クラレンスの学校の成績は良かった。1903年にウォルサム高校を卒業するときにマサチューセッツ工科大学の入学試験を受け、これに合格すると、基本コースを受講した後に、技師として専攻コースに進んだ。夏の間に、ボストン地下鉄の多くを建設したJ・B・ウースター & Co. で働いた。学生時代に、ジョージ・スウェイン教授のお気に入りとなった。1907年に卒業した後、スウェインがハウに助手の職を提供した。ハウはこれを受け入れたが、若い技師としてボストン地域を離れて経歴を積むべきとも考えていた。それから間もなく、ノバスコシア州ハリファックスにあるダルハウジー大学から工学教授となる機会を提案された。スウェインはハウと仲間の技師ジェイムズ・バーカーとの間で、コイントスでその職を誰が受けるかを決めさせたという話が残っている。バーカーはその後半生でその話を否定し、その地位には興味が無く、ハウが異常なくらい幸運だと喜んでいたので、バーカーとギャンブルするほど愚かだったとは思えないと言っていた。いずれにしても、ハウは将来の見通しが良くなってきた。1907年恐慌がおきていたので、旧友には職の無い者が多かった。
当時、ダルハウジー大学は小さな大学であり、学生数は400人ほど、教授陣は大変負担が重かった。この時23歳のハウはその学生と大して年齢が変わらなかった。その分野では経験が少なく、ハリファックスから外に出たときは、学生と共に問題を解くこともあった。ハウの見解では、どんな問題でも常識と懸命さで解決できるというものだった。ハウは学生を田園部に連れて行き、キャンプを行い、想像上の鉄道の測量を行い計画を作った。学生の1人、デニス・ステアズは後にモントリオール・エンジニアリング・カンパニーを率いて行くことになる者であり、キャンプが終わる時までに学生たちはハウを大いに尊敬するようになっていたと語っていた。学生のC・J・マッケンジーは、ハウが後にカナダ政府の全国研究委員会の委員長に指名した者であるが、ハウは明晰な講師ではなかったが、そのプレゼンテーションが常に大変はっきりしたものだっと言っていた。ハウは後に大学の教育について、「大学で働く者は働き続け、成功する技師になる。怠ける者は怠け続け、何も得られない」と述べていた。さらに自身の仕事に加えて、ハリファックスでの社交生活においても行動的な時間を見い出し、学生の1人の姉妹との結婚も考えていたが、彼女は別の男性を思っていた。
ハリファックスでの1年後、植民地のダルハウジー大学や他の大学の上級生に対する工学の授業は、別の工業系大学で行われることとなり、ハウはそちらには役割を持たなかった。ハウは後に、ダルハウジー大学が好きであり、この変更が無ければ教授としてそこに留まっていたであろうと語っていた。しかし1913年、ダルハウジー大学での元の仲間であり穀物委員会の議長に指名されたばかりのロバート・マジルが、穀物エレベーターの建設を監督する責任のある技師長の職をハウに提案した。ハウは「それまでそのような物を見たこともなかったが、その職に就くことにした」と語った。同年、カナダ人となることで、ハウはイギリス臣民となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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