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クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ(カンナダ語:ಶ್ರೀ ಕೃಷ್ಣ ದೇವರಾಯ, テルグ語:శ్రీ కృష్ణదేవ రాయలు, タミル語:கிருஷ்ணதேவராயன், 英語:Krishna Deva Raya, 1471年 - 1529年)は、南インドのヴィジャヤナガル王国、 トゥルヴァ朝の君主(在位:1509年 - 1529年)。クリシュナ・デーヴァラーヤ、クリシュナデーヴァラーヤとも表記される。 クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはヴィジャヤナガル王国の最も偉大な君主とされ、その治世に王国はガジャパティ朝、ゴールコンダ王国、ビジャープル王国に輝かしい勝利をおさめたのみならず、経済的・文化的にも発展し、ヴィジャヤナガルに滞在していたフェルナン・ヌーネスやドミンゴス・パイスといったヨーロッパの旅行者から国民の幸せを願う君主という最大級の賛辞を送られるほどであった。彼は文化の保護者であったが、彼自身もまた文人であり、多くの文学作品を残している。 クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは「カンナダ・ラージヤ・ラーマ・ラーマナ」(Kannada Rajya Rama Ramana, カンナダ帝国の主)、「アーンドラ・ボージャ」(Andhra Bhoja, アーンドラのボージャ)、「ムール・ラーヤラ・ガンダ」(Mooru Rayara Ganda, 三王の王)、といった称号を保持していた〔Keay, John, India: A History, New York: Harper Collins, 2000, p.302〕。一方、パイスの記録では、その称号は「王の中の王(ラージャーディラージャ)、インディア最大の領主の中の領主、三つの海と一つの大陸の領主」であった。 ==生涯== ===即位以前と即位=== 1471年、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはヴィジャヤナガル王国の有力者トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカの息子として生まれた〔Prof K.A.N. Sastri, ''History of South India, From Prehistoric times to fall of Vijayanagar'', 1955, pp 250,258〕。 1491年、トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカは幼王ティンマ・ブーパーラとインマディ・ナラシンハ・ラーヤの摂政となり、王国の実権を握った〔辛島、p150〕〔ヌーネス、p325〕。 1505年、兄ヴィーラ・ナラシンハ・ラーヤは主家であるサールヴァ朝から王位を簒奪し、新たに王国の第三王朝となるトゥルヴァ朝を創始した〔辛島、p150〕。 1509年、王朝の創始者である兄ヴィーラ・ナラシンハ・ラーヤその死の間際、8歳の息子に王位を継承させるため、最年長の弟クリシュナ・デーヴァ・ラーヤを盲目にするよう命じていた〔ヌーネス、p324〕。だが、宰相サールヴァ・ティンマラサはこのとき、「仰せの通りにいたします」と嘘をつき、王として相応しいクリシュナ・デーヴァ・ラーヤを生かすためにヤギの眼をくり抜いて持っていった〔ヌーネス、p325〕。 サールヴァ・ティンマラサはその眼を見せようとした際、ヴィーラ・ナラシンハ・ラーヤ死亡していたため、この嘘はばれなかった〔ヌーネス、p325〕。そののち、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは推挙されて王位を継ぎ、7月26日にヴィジャヤナガルで即位式が挙げられた(この日はクリシュナの誕生日でもあった)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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