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クリスティーヌ・ド・フランス : ミニ英和和英辞書
クリスティーヌ・ド・フランス[らんす]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
ランス : [らんす]
 【名詞】 1. lance 2. (n) lance

クリスティーヌ・ド・フランス : ウィキペディア日本語版
クリスティーヌ・ド・フランス[らんす]

クリスティーヌ・マリー・ド・フランス(Christine Marie de France, 1606年2月10日 - 1663年12月27日)は、サヴォイアヴィットーリオ・アメデーオ1世の公妃。イタリア語名ではマリーア・クリスティーナ・ディ・フランチア(Maria Cristina di Francia)。「マダム・レアル」(Madame Reale)とも呼ばれた。
フランスアンリ4世と2度目の王妃マリー・ド・メディシスの次女としてパリで生まれた。1619年にヴィットーリオ・アメデーオと結婚した。
1630年に夫はサヴォイア公となるが、7年後に急死した。クリスティーヌは2人の息子フランチェスコ・ジャチントカルロ・エマヌエーレ2世がまだ年少だったため、摂政となった。
亡夫の弟たち、マウリツィオ枢機卿トンマーゾが、義姉とフランス勢力の介入に異を唱えた。クリスティーヌの長男フランチェスコ・ジャチントが夭逝すると、1638年、彼らはスペインの力を借りて「ピエモンテ戦争」を引き起こした。2つの勢力はプリンチピスティ(公子派)、マダミスティ(マダム・レアル派)と呼ばれた。
4年に及ぶ戦争の後、クリスティーヌ側が勝利した。彼女は息子の公位を守っただけでなく、フランス側がそれ以上公国に介入するのを遮断した。1642年に和議が成立し、マウリツィオはローマ教皇パウルス5世の許しを得て還俗し、14歳の姪ルイーザ・クリスティーナと結婚してニース知事となった。クリスティーヌは、カルロ・エマヌエーレが成長するまで摂政を務めた。
クリスティーヌは、1663年にトリノで死去した。
==子供==

*ルイージ・アメデーオ(1622年 - 1628年)
*ルイーザ・クリスティーナ(1629年 - 1692年) - 叔父マウリツィオと結婚
*フランチェスコ・ジャチント(1632年 - 1638年) - サヴォイア公
*カルロ・エマヌエーレ2世(1634年 - 1675年) - サヴォイア公
*マルゲリータ・ヴィオランテ(1635年 - 1663年) - パルマ公ラヌッチョ2世
*エンリエッタ・アデライーデ(1636年 - 1676年) - バイエルン選帝侯フェルディナント・マリア
*カタリーナ・ベアトリーチェ(1636年 - 1637年) - エンリエッタの双子の妹



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「クリスティーヌ・ド・フランス」の詳細全文を読む




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