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クリストフ・フォン・ドホナーニ : ミニ英和和英辞書
クリストフ・フォン・ドホナーニ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

クリストフ・フォン・ドホナーニ : ウィキペディア日本語版
クリストフ・フォン・ドホナーニ[ちょうおん]

クリストフ・フォン・ドホナーニChristoph von Dohnányi, , 1929年9月8日 - )は、ドイツ出身の指揮者作曲家
== 来歴 ==
ベルリン生まれ。父はウィーン生まれのドイツの法律家ハンス・フォン・ドホナーニである。しかし、反ナチスユダヤ人支援のレジスタンス活動をしたため、1945年にナチスの強制収容所で処刑された。母はクリスティーネ・ボンヘッファー。母方の叔父はルター派の神学者で、やはり反ナチスのレジスタンス活動家であり、ヒトラー暗殺計画に関わって1945年に強制収容所で処刑されたディートリヒ・ボンヘッファー。兄は後にハンブルク市長をつとめたクラウス・フォン・ドホナーニハンガリーの作曲家でありピアニストエルンスト・フォン・ドホナーニ(1877年 - 1960年)を祖父に持つ。一度目の結婚でもうけた息子ユストゥス・フォン・ドホナーニは俳優。2番目の妻はソプラノ歌手のアニャ・シリヤオペラと演奏会の両方で評価が高く、ドイツ系の現役指揮者として重鎮的存在である。
第二次世界大戦後、ミュンヘン大学で法律を学ぶが、1948年に音楽の道に転じ、指揮と作曲でリヒャルト・シュトラウス賞を獲得して卒業、祖父の元で作曲を学ぶためにフロリダ州立大学に留学する。アメリカではレナード・バーンスタインに師事したと言われる。その後、指揮の勉強に専念し、1952年にゲオルク・ショルティの指名により、フランクフルト歌劇場の助手となる。
*1957年-1963年、リューベック歌劇場音楽監督(当時のドイツで最年少の音楽監督)
*1963年-1966年、カッセル州立管弦楽団音楽監督。
*1964年-1969年、ケルン放送交響楽団首席指揮者。
*1968年-1977年、フランクフルト歌劇場音楽監督、のち総監督。
*1977年-1984年、ハンブルク国立歌劇場の音楽総監督。新作オペラや新演出を意欲的に上演、注目とスキャンダルの両方に見舞われる。
*1984年-2002年、クリーヴランド管弦楽団音楽監督、退任後は桂冠音楽監督。
*1994年-2008年、フィルハーモニア管弦楽団首席客演指揮者、1997年からは同首席指揮者、退任後は終身名誉指揮者
*2004年から北ドイツ放送交響楽団の首席指揮者。
デッカ・レコードに多くの録音を残している。1990年代には、ショルティ以来となるデッカの「ニーベルングの指環」のスタジオ録音にクリーブランド管弦楽団と取り組んだが、未完に終わっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「クリストフ・フォン・ドホナーニ」の詳細全文を読む




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