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クリストフ・フォン・ドーナ : ミニ英和和英辞書
クリストフ・フォン・ドーナ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

クリストフ・フォン・ドーナ : ウィキペディア日本語版
クリストフ・フォン・ドーナ[ちょうおん]
クリストフ・フォン・ドーナ(Burggraf Christoph von Dohna, 1583年6月27日 モールンゲン - 1637年7月1日 オランジュ)は、ドイツブランデンブルク=プロイセン出身の貴族、人文学者、伯爵城伯三十年戦争期に政治家・外交官として活動した。
== 生涯 ==
ドーナ城伯アハティウス(Burggraf Achatius von Dohna, 1533年 - 1601年)とその妻のバルバラ・フォン・ヴェルンスドルフ(Barbara von Wernsdorf, 1547年 - 1607年)の間の八男として生まれた。家庭教師に初等教育を受けた後、ロストック(1597年)、アルトドルフ(1598年)、ハイデルベルク(1599年)、シエーナ(1601年)、ペルージャ(1602年)、ジュネーヴ(1604年)など国内と国外の諸大学を転々とし、1606年にハイデルベルク大学に戻った。
1606年、アンハルト=ベルンブルククリスティアン1世の命令を受けて初めてパリに赴き、その後もたびたびクリスティアン1世より委託された外交任務を果たした。1619年、クリスティアン1世の弟のアンハルト=ケーテンルートヴィヒ1世が会長を務める貴族文芸サークル・実りをもたらす会の会員に迎えられた。1615年、クリスティアン1世の口利きにより、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の枢密顧問官に名を連ねた。1620年には選帝侯の侍従長(Oberstkämmerer)に就任している。白山の戦いの後、危険の迫った選帝侯一家をキュストリン(現在のポーランドルブシュ県コストシン・ナド・オドロン)に避難させている。
1620年3月23日、ゾルムス=ブラウンフェルス伯ヨハン・アルブレヒト1世の娘ウルスラ(Gräfin Ursula zu Solms-Braunfels, 1594年 - 1657年)と結婚した。ウルスラの妹アマーリエが1625年にオランダ総督のオラニエ公フレデリック・ヘンドリックと結婚したため、オラニエ公とは義兄弟となった。1624年から1626年にかけ、カルヴィンデン(Carwinden)に城館を築いた。ポーランド・スウェーデン戦争の影響によりカルヴィンデンの居城を追われると、エムデン、次いでデルフトに亡命した。
1630年に義弟のオラニエ公より南仏オランジュ公領の総督に任命され、亡くなる1637年まで同職を務めた。在職中、同地にある学校に多額の経済援助を行っている。死後、妻ウルスラが1648年までオランジュ公領総督を務め、その後は長男フリードリヒ(1621年 - 1688年)に交替した。妻との間には7男5女の12人の子女があり(うち8人が成人)、オランジュ総督を継いだ長男のほか、次男のクリスティアン・アルブレヒト(1621年 - 1677年)、四男のクリストフ・デルフィクス(1628年 - 1668年)も軍人や政治家として活躍した。
ドーナは人文学者でもあり、翻訳家として活動したほか、ドイツ語イタリア語ラテン語の詩を多く残している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「クリストフ・フォン・ドーナ」の詳細全文を読む




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