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クリス・コナー (Chris Connor、1927年11月8日 - 2009年8月29日)は、アメリカ合衆国出身のジャズ歌手。 安定感のある歌唱力を持ち、ハスキーボイスが特徴で、アニタ・オデイ、ジューン・クリスティらと並び、スタン・ケントン・オーケストラが輩出した女性歌手(「ケントン・ガールズ」と言われる)の一人であり、先の二人と同様に1950年代に一定の成功を収めた。代表作は「バードランドの子守唄 (Lullaby Of Birdland)」。 ==生涯== 1927年にカンザスシティで生まれる。歌手になる前に8年間クラリネットを習っていた〔Musician Guide bio 〕が、大学生時代に(英語版ウィキペディアでは)"1945年にジェファーソンシティにある大学の卒業式で歌った時、自らの歌に対する聴衆の反応が良かったことをきっかけに、本格的に歌手の道を目指す。 歌手の夢を叶えるため、1948年ニューヨークへ渡る(当初は歌の仕事を探しながら、速記者として働いた)。 やがてクロード・ソーンヒルのロード・マネージャーをしていたジョー・グリーンに出会ったことをきっかけに、クロード・ソーンヒルが手がけるコーラス・グループ、「ザ・スノーフレークス」のオーディションを受け、合格。 クロード・ソーンヒル楽団の「There's a Small Hotel」、「I Don't Know Why」の録音にコーラス(ザ・スノーフレークス名義)として参加する。 1952年以降は、Jerry Wald楽団の歌手として吹き込みを行うが、その後もクリスは1952年3月まで散発的にソーンヒル楽団とツアーを続けたほか、同年10月には、ソーンヒル楽団がラジオ放送向けの吹き込みを行う際、クリスも4曲の吹き込みへ参加した。 クリスの歌声をラジオで聴いたジューン・クリスティが、スタン・ケントン楽団の新たな歌手としてクリスを推薦する。 ジューンの強い推薦により、1953年2月からスタン・ケントン楽団へ所属。 ケントン楽団所属後初となる吹き込み「And The Bull Walked Around, Olay (1953年発売)」は、ビルボード誌のヒット・チャートで最高30位に入るヒット曲となった。 しかし1953年に突如として楽団を退団(ワン・ナイターのツアーが苦手〔「パリの週末(TOCJ-50065)」解説(執筆:高田敬三)より引用〕だった為といわれる)、ソロへ転向。 1953年にベツレヘム・レコードと契約。2枚の10インチ盤と2枚の12インチ盤を発表。 中でも1954年発売〔はじめは10インチ盤(BCP-1001)であったが、後年に12インチ盤(BCP-6004)として一部曲目を変更した上で再発売〕の「バードランドの子守唄 (Chris Connor Sings Lullabys Of Birdland)」は、2万枚のセールスを記録〔「Sings Lullabys Of Birdland (CDSOL-6016)」解説(執筆:原田和典)より引用〕。後に自身の代表作となる。 1956年にアトランティック・レコードと契約。 アトランティックに所属していた1956年から1962年までの期間に、クリスはメイナード・ファーガソン、ケニー・バレル、ハービー・マン、ラッキー・トンプソン、ハンク・ジョーンズ、オスカー・ペティフォード、ズート・シムズ、アル・コーン、ラルフ・シャロンらとアルバムの制作活動を行っている。 1961年、ルーレット・レコードからメイナード・ファーガソンとの共演盤を発表。同年、来日が実現している。 1963年、ソロに転校したばかりの時にクリスのマネージャーをした人物、Monte Kay〔音楽プロデューサーで、ナイトクラブの音楽監督。ハービー・マンのマネージャーもしていた。1950年代にモンテ・ケイは、クリスのためにバードランドでの仕事を紹介している。〕がFMレコードを設立。クリスはモンテの説得を受け、アトランティックとの契約の更新をせず、同レーベルへ所属することになる。 1963年、移籍後第1作目として、ナイトクラブ「ザ・ヴィレッジ・ゲイト」でのライブ盤「ヴィレッジ・ゲイトのクリス・コナー (Chris Connor At The Village Gate)」を発表。 同年3月、パリのバークレー・レコードのスタジオでアルバム「パリの週末 (A Weekend In Paris)」を録音する。 本作は、プロデュースを担当したアラン・ダグラスが以前勤めていたバークレー・レコードのスタジオとサウンド・エンジニアの質の高さに注目し、クリスをパリへ連れて行き、録音を行ったもの〔なお、本作で編曲を担当したミシェル・コロンビエ(当時23歳)は、後にセルジュ・ゲンスブール、ブリジット・フォンテーヌ、ステファン・グラッペリと共同作業を行うなど、2004年に没するまでフランスの名編曲家として活動した〕。 しかし、FMレコードは設立から約1年後の1964年に破産、ルーレット・レコードに吸収された。 流行音楽の座がジャズからロックへ移行する中での弱小レーベルへ移籍という「不幸な決断〔http://www.nytimes.com/2009/09/01/arts/music/01connor.html Chris Connor, Whose Voice Embodied Cool Jazz, Is Dead at 81 - Obituary (Obit) - NYTimes.com〕」により、その後は長期契約に恵まれず、ABCパラマウント、コンテンポラリー・レコードなど様々なレーベルを渡り歩く。 1969年に来日。その時に行ったライブを録音したレコードが発売された(日本ビクター、SMJ-7511)。 1975年、当時日本におけるアトランティック・レコードの発売元であったワーナー・パイオニアが、アトランティック時代にクリスが行った"シングル用の吹込み"のみを収録したLP「ミスティ」を発売。 1976年、日本のCBSソニーに吹き込みを行う(アルバム「Chris Moves」として発売)。 1983年には、クリスとアーネスティン・アンダーソン、キャロル・スローンが日本でジョイント・コンサートを開いた際にスタジオ録音した作品「Three Pearls (EWJ-90028)」を東芝EMIが発表。 さらに、1991年から1995年までの間4作を日本のアルファレコードに吹き込んだ。 2009年8月29日、癌によりニュージャージー州にて死去。 クリスは生前、ABCとパラマウントで録音した音源の権利を所有していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クリス・コナー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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