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クリヴィチ族(、、)は、6世紀 - 10世紀の西ドヴィナ川、ドニエプル川、ヴォルガ川の三河川の上流域に形成された、東スラヴ民族の部族連合体である。ルーシの史料では『原初年代記』にその名がみられる〔國本哲男『ロシア原初年代記』22頁〕。 クリヴィチ族の居住地域(現在の地理で言えば、南部を除くベラルーシ全域と、ロシアのスモレンスク州・プスコフ州のあたりに相当する。)は、9世紀頃にキエフ大公国の一部に組み込まれ、11世紀 - 12世紀にはスモレンスク公国・ポロツク公国の領域となった。また北西部はノヴゴロド公国に属した。主要都市にはスモレンスク・ポロツク・イズボルスクがあった〔Изборск // Энциклопедический словарь Ф.А. Брокгауза и И.А. Ефрона〕。クリヴィチ族は農耕・牧畜・手工業を営んでおり、民族研究上の仮説の1つによれば、古ルーシ民族(ru)に含まれる。 (留意事項):本文・注釈のキリル文字表記にはロシア語を用いている。(参考文献・出典の書籍名はこの限りではない。) ==起源== クリヴィチ族は、プスコフ・クリヴィチ族と、ポロツク-スモレンスク・クリヴィチ族の、2つの大きなグループに大別される。比較的よく研究されている、ポロツク-スモレンスク・クリヴィチ族の文化においては、服装にはスラヴの要素を持つ装飾がなされ、バルト人の要素も含んでいる。また、埋葬様式に関しても、バルトの要素が見出される。移住してきたクリヴィチ族は、定住していたバルト人・西フィン人と徐々に同化し、成熟していったことが、考古学上の史料から証明されている。 その移住の過程は、まずネマン川中流域を横切ってプスコフ州に到来し、6世紀の、プスコフ・長形クルガン文化(ru)を形成。後にその中の一部が南進し、スモレンスク州とベラルーシ東部に定住。という説がある。さらに、この移動前の発祥地については、カルパチア山脈とする説と、ポーランド北部とする説がある。 カルパチア山脈とする説は、年代記に基づいて、クリヴィチ族の起源を説明したものである。特に、「ポロチャーネ族(クリヴィチ族の同族である)は、(ドレヴリャーネ族、ポリャーネ族、ドレゴヴィチ族と共に、)白クロアチア族(ru)、セルビア人、ホルタネ族(ru)の中の部族が、6世紀 - 7世紀に、ドニエプル川の上流へと移動してベラルーシ地域に定住した。」という主旨の記述〔〕が根拠となる〔〕。 一方のポーランド北部とする説は、言語学の研究に基づくものである。ノヴゴロドのと古クリヴィチ族方言は、スラヴ語北西方言グループに属しているということが、ロシアの言語学者の比較・分析によって提示されている〔Топоров В. Значение белорусского ареала в этногенетических исследованиях // 〕。この言語学の研究成果を根拠としている。 クリヴィチ()という名称については、歴史学者によって様々な見解が示されている。説の1つでは、クリヴィチ族の先祖の名に由来するとしている。また、バルト人の祭司長を指すクリヴェ()(ru)に由来するという説や、血縁者()、隻眼の・丘の多い(共に)という言葉に由来するという説がある〔〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クリヴィチ族」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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