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クルセーダー作戦(クルセーダーさくせん、)は、第二次世界大戦中の1941年11月18日から12月30日に北アフリカで行われた枢軸国軍に対するイギリス連邦諸国軍を含むイギリス軍(以下「イギリス軍」と記す。)の反攻作戦のことである。 1940年9月、イタリア軍は自国の植民地リビアから、東のエジプトへ侵攻したが、イギリス軍の12月9日に発動したコンパス作戦により逆に攻め込まれ、リビアのキレナイカ地方から撤退した。これに危機感を抱いたドイツのヒトラーは1941年2月、エルヴィン・ロンメルを司令官としてドイツアフリカ軍団を北アフリカへ派遣した。そこで、ロンメルは直ちに反撃を開始し、イギリス軍をエジプトまで追い込んだものの、トブルクを陥落させることができず、そのまま包囲する形勢となった。 これに対し、イギリス軍は2度の反攻作戦を実施したが、いずれも失敗に終わった。双方は戦力の充実を図り、それぞれ攻勢作戦を準備したが、11月18日にイギリス軍が先手をとってこの攻撃作戦(クルセーダー作戦)を開始した。これに対し、ロンメルは敵軍の側面を攻撃し、一時イギリス軍は退却した。ロンメルは東の国境方面へ装甲部隊を侵攻させ一気にイギリス軍の兵站線を切断し殲滅を図った。しかしそこで敵の抵抗に遭い、さらに補給の状況も悪化していたためいったんトブルクの西方ガザラまで撤退した。けれどもここでもイギリス軍の攻撃に耐え切れず、損害を抑えるようにしながらエル・アゲイラまで退却した。これにより、トブルクは枢軸国軍の包囲から解放され、キレナイカ地方はイギリス軍が支配することとなった。 == 戦いの背景 == 西方電撃戦後、1940年6月22日独仏休戦協定が締結され、北アフリカのアルジェリア・チュニジア・モロッコもナチス・ドイツの傀儡であるペタン元帥のヴィシー政権の統治下となった〔『北アフリカ戦線』 (2009)、pp.10,12.〕。 1940年9月、イタリア軍はこれに乗じて自国の植民地リビアから、東のエジプトへ侵攻し、一旦はエジプト領シディ・バラーニまで攻め込んだものの兵站上の理由でそれ以東へは進めなかった〔『北アフリカ戦線』 (2009)、p.38〕。これに対し、イギリス軍は1940年12月9日に コンパス作戦を開始し、イタリア軍を撃退して、逆にリビアにまで攻め込んだ〔『北アフリカ戦線』 (2009)、pp.14-17.〕。重要な同盟国の領土を失わせる訳にはいかないと考えたヒトラーは1941年2月、ロンメルを司令官としてドイツアフリカ軍団を北アフリカ戦線に投入した〔『北アフリカ戦線』 (2009)、p.22〕。 北アフリカに着いたロンメルは1941年3月24日反攻を開始して〔山崎 (2009)、pp.213-214.〕、4月4日にベンガジを奪回〔山崎 (2009)、p.217〕、4月12日にはエジプト国境近くのバルディアを占領し、エジプトとトブルクの連絡を遮断した〔山崎 (2009)、p.228〕。さらに4月14日には包囲したトブルクへの攻撃を開始するまでになった〔『北アフリカ戦線』 (2009)、p.42〕。しかしながら、トブルク守備隊の抵抗とこれまでの戦闘による戦力の消耗のため、トブルクを攻略できなかった〔『北アフリカ戦線』 (2009)、p.41-43.〕。これに対し、5月15日からのブレヴィティ作戦をはじめとしてイギリス軍も3回に渡り反撃作戦を行い、この3回目の反撃作戦がクルセーダー作戦であった〔『北アフリカ戦線』 (2009)、p.24-28.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クルセーダー作戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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