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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
thumb クルト・クリストフ・フォン・シュヴェリーン(Kurt Christoph von Schwerin,1684年10月26日 - 1757年5月6日)は、メクレンブルク=シュヴェリーン公国を経てプロイセン王国に仕えた貴族、軍人。爵位は伯爵、軍の階級は元帥。黒鷲勲章受勲者。「今世紀で最も偉大な将軍の一人」とフリードリヒ大王に評された〔Giles Macdonogh, ''Frederick the Great A LIFE IN DEED AND LETTERS'',214頁。〕、大王時代のプロイセンの主要な将軍の一人。教養人として知られ、演劇通の一面も持っていた。シュヴェリーン家はポンメルンで栄えた一族で、ブランデンブルク選帝侯時代から同じ一族の出身者がプロイセンに仕えて活躍している。 == 概歴 == === 前半生 === シュヴェリーンはポンメルンのレーヴィッツで生まれた。母はラミン家の出。彼が12歳のとき父が亡くなり、叔父デトレフ・フォン・シュヴェリーンの後見を受け、14歳でオランダのライデン大学に送られそこで学ぶ。1700年メクレンブルクに戻ると将校見習となって叔父の連隊に入り、兄デトレフ・ベルントの中隊に所属して軍人としての生活を始めた。 シュヴェリーンの連隊はオランダと契約されているもので、1701年、スペイン継承戦争の開始に伴ってシュヴェリーンの連隊もその指揮下に入って戦争に加わり、以後いくつもの会戦に参加して経験を積んだ。1703年中尉に昇進。1704年シェレンベルクの戦いに参加するがここで兄を失う。さらにブレンハイムの戦いに参加した。1705年大尉に昇進し、中隊長となるも、このとき一度連隊を抜けて故郷へ帰っている。しかし翌年メクレンブルク=シュヴェリーン公フリードリヒ・ヴィルヘルムの軍に復帰して中佐となった。戦線に復帰したあとラミイの戦いに参加し、1708年大佐に昇進する。またこの年ウルリーケ・エレノオーレ・フォン・クラッソウと結婚した。翌年公が部隊をプロイセンに貸し出したので、以後シュヴェリーンもプロイセンの指揮下で戦い、1709年マルプラケの戦い、モンス攻略に参加した。 ところでこのころ北ヨーロッパでは大北方戦争が反スウェーデン側優位に大きく傾いており、メクレンブルクもこの戦争に巻き込まれていた。このためシュヴェリーンは1712年にマグヌス・ステンボックのもとでガーデブッシュの戦いに参加した。翌1713年、シュヴェリーンは公国の外交官としてオスマン帝国領ティギナに抑留されていたカール12世のもとに派遣される。この年、メクレンブルクでは代が替ってカール・レオポルトが公位を継いだが、公が軍建設のため課税を強化したことに領邦等族が反発して彼らは帝国に公を訴え、大北方戦争とあわせてメクレンブルクは非常に混乱した。 1717年、カール6世から公に対してライヒスエクセクティオンが出され、メクレンブルクにはハノーファー軍とプロイセン軍が侵入した。シュヴェリーンは1718年に少将となっていたが、1719年メクレンブルクの少数の軍でもってハノーファー軍に奇襲をかけて小勝利を収め、敵の鼻を明かすことに成功した。この功によってシュヴェリーンは中将に昇進した。 1720年、スウェーデンはストックホルム条約を締結し、帝国内において戦争は終結した。シュヴェリーンはプロイセンに転仕した。この際公国における中将の地位がプロイセンでは認められず、少将での仕官となった。戦争続きだった若年時代と違ってしばらく平和が続き、シュヴェリーンは外交や行政の仕事に携わりつつ、着実に地位を上昇させる。1724年第24歩兵連隊シェフとなり、はじめシュパンダウ、次いでフランクフルトに駐在となる。1730年パイツ総督となるが、この年シュヴェリーンは王太子フリードリヒの亡命未遂事件で軍法会議の一員を務めている。1731年再び中将となった。 1733年、依然として騒動の収まらないメクレンブルクを落ち着かせるために、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はシュヴェリーンに数個連隊を与えて派遣し、シュヴェリーンは同地の平定にあたった。これらの功績により1736年シュヴェリーンは黒鷲勲章を授与され、1739年歩兵大将に昇進する。 thumb 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クルト・クリストフ・フォン・シュヴェリーン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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