|
クルト・マズア(Kurt Masur , 1927年7月18日 - 2015年12月19日)は、旧東ドイツ出身の指揮者。 == 来歴 == ドイツ東部シュレージエン地方のブリーク(現在のポーランド・オポーレ県)に生まれ、ライプツィヒでピアノ・作曲・指揮法を学ぶ。1960年~1964年ベルリン・コーミッシェ・オーパー、1955年~1958年および1967年~1972年ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を務める。1970年にライプツィヒ市の楽長とライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者(1970-1996)に就任。同時期、西ヨーロッパ・アメリカ・旧ソ連の主要オーケストラへ客演指揮も活発に行い、日本でもNHK-FM放送で頻繁に放送された。 1979年には、読売日本交響楽団の名誉指揮者に就任、何度も共演を繰り返してきた〔【お悔やみ】名誉指揮者のクルト・マズア氏が死去 - 読売日本交響楽団 2015年12月20日〕。 ベルリンの壁崩壊につながったとされる1989年10月9日のライプツィヒの月曜デモにおいて、民主化を要求するデモ参加者が7万人に達し、秘密警察と軍隊の銃口が市民に向けられた際は、4ヶ月前に起きた天安門事件の二の舞になることを恐れたマズアは、東ドイツ当局に対して市民への武力行使を避け、平和的解決を要望するメッセージを発表した。この行動は当時国際的にも注目を集めた。また、ドイツ統一後の1994年5月にリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領が退任した際には、一時ドイツキリスト教民主同盟から大統領候補に擬せられたこともあった〔【評伝】クルト・マズア氏--行動する指揮者の後世への功績 - 鈴村裕輔 研究ブログ 2015年12月21日〕。 1991年から2002年まで、ズービン・メータの後を受ける形でニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督を務めた。2000年にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者に就任(2000-2007)、2002年4月からはフランス国立管弦楽団の音楽監督(2002-2008)も務めた。 2008年ドイツ・ボンにてヴィルヘルム・フルトヴェングラー賞を授与された。 1995年にドイツ政府から大功労十字章、2002年に大功労十字星章、そして2007年には大功労十字星大綬章と3度の功労勲章を授与された。また、フランス政府からは1997年に レジオンドヌール勲章(コマンドール章)を授与されている。 2009年10月9日、「無血に終わったことは奇跡」と評されたライプツィヒの「月曜デモ」から20年目にあたるこの日、ライプツィヒのゲヴァントハウスで、その20周年を祝う記念式典がおこなわれた。記念式典には、メルケル首相、ケーラー大統領、ティリッヒ・ザクセン州首相、ユンク・ライプツィヒ市長らが出席し、各要人のスピーチ、そしてマズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏のもと、ドイツ国歌斉唱に続き、20周年の記念コンサートがおこなわれた。 また、1990年代からライプツィヒにゆかりのあるフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディの作品の研究と普及に努め、荒廃していた住居を再建したほか、1991年にフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ基金を設立し、メンデルスゾーンの再評価を進めた〔【評伝】クルト・マズア氏--行動する指揮者の後世への功績 - 鈴村裕輔 研究ブログ 2015年12月21日〕。 私生活では3度の結婚歴があり、1972年には居眠り運転により2番目の妻イルムガルトを含む数人を死亡させた。その後、声楽家の桜井偕子と結婚し息子ケン・マズア(Ken-David Masur)をもうけた。現在彼はサンアントニオ交響楽団常任指揮者を務めている。また先妻の娘カロリン・マズア(Carolin Masur)はオペラ歌手として活躍している。 2015年12月19日に死去〔ドイツを代表する指揮者、クルト・マズアさん死去 朝日新聞 2015年12月19日閲覧〕。88歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クルト・マズア」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|