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クレオパトラ7世フィロパトル(, , 紀元前69年 - 紀元前30年8月12日)は、古代エジプトプトレマイオス朝最後のファラオである。父はプトレマイオス12世(アウレテス)、母はクレオパトラ5世であり、兄弟はベレニケ4世(姉)、アルシノエ4世(妹)、プトレマイオス13世、(共に弟)が知られる。「クレオパトラ」の名はギリシア語で「父の栄光」を意味する。 現在、一般に「クレオパトラ」として浸透しているのは、このクレオパトラ7世の事である。「絶世の美女」として知られ、人をそらさない魅力的な話術と、小鳥のような美しい声であったと伝えられる。ただし、クレオパトラの肖像は治世当時、アントニウスが発行したとされている硬貨に横顔が残されているのみであり、この評価は後世の作り話だとの説がある(#人物節を参照)が、妹のアルシノエ4世の復元図から姉のクレオパトラも美しかったとする説もある。 == 生涯 == === 混乱と骨肉の争い === プトレマイオス朝では、権力を巡る骨肉の争いが常態化していた。事実、クレオパトラが14歳の紀元前55年、父と姉ベレニケ4世は王位を巡って争い、父がローマの支援を得て勝利してベレニケ4世を処刑した。このようにエジプト国内は不安定な状況下に置かれていた。 紀元前51年、クレオパトラが18歳の時に父が死亡したが、父の遺言とプトレマイオス朝の慣例〔古代エジプトは長女の夫に王位継承権があり、息子が王位を継承する場合にはキョウダイ婚を行っていた。ギリシア人王朝であるプトレマイオス朝も、その慣行を踏襲した。〕にのっとり、兄弟で最も年長のクレオパトラが弟のプトレマイオス13世と兄弟婚を行い、共同で王位に就いた。クレオパトラ7世は強大なローマとの同盟が唯一エジプトの存続の道であると考えたが、弟との共同統治は弟の側近の介入により齟齬をきたした。 紀元前49年、ガイウス・ユリウス・カエサル派とグナエウス・ポンペイウスら元老院派との間で内戦が勃発した。クレオパトラ7世は父王時代からの繋がりで元老院派を支援した。ポンペイウスの子小ポンペイウスがアレクサンドリアを訪れてクレオパトラ7世に兵員と食料の協力を要請した時、女王は小ポンペイウスに対し予想を上回る兵員及び食料を提供した。この際に小ポンペイウスの愛人となったとされる〔プルタルコス「英雄伝」アントニウス伝〕。 しかし紀元前48年春、ローマからの独立を標榜するプトレマイオス13世派は、このクレオパトラ7世の動きに不信を募らせ、アレクサンドリア住民が親ローマ主義のクレオパトラ7世に対して起した反乱に乗じてクーデターを決行し、クレオパトラ7世を東部国境のペルシオンへと追いやった。ポンペイウスはファルサルスの戦いにカエサルに敗北した後にエジプトに上陸したが、9月29日にプトレマイオス13世派に殺害された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クレオパトラ7世」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Cleopatra 」があります。 スポンサード リンク
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