翻訳と辞書
Words near each other
・ クレマンティーヌ・ド・ベルジック
・ クレマン・アデール
・ クレマン・グラニエ
・ クレマン・グルニエ
・ クレマン・シボニー
・ クレマン・シャベルノー
・ クレマン・シャントーム
・ クレマン・ジャヌカン
・ クレマン・ジュグラー
・ クレマン・マロ
クレマン・ロレ
・ クレマン・ロレー
・ クレマー
・ クレミン
・ クレム
・ クレムシュニテ
・ クレムス・アン・デア・ドナウ
・ クレムソン (サウスカロライナ州)
・ クレムソン (駆逐艦)
・ クレムソン大学


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

クレマン・ロレ : ミニ英和和英辞書
クレマン・ロレ
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


クレマン・ロレ : ウィキペディア日本語版
クレマン・ロレ

クレマン・ロレClément Loret 1833年 - 1909年2月14日)は、ベルギーに生まれフランスに帰化したオルガニスト作曲家
== 生涯 ==
ロレはデンデルモンデに生まれた。彼の父、イッポリト(Hippolyte)はデンデルモンデのノートル=ダム教会にオルガンを建造するとともにそのオルガニストを務めていた人物であり、ロレが幼い頃から彼に音楽とオルガンの手ほどきをした。彼は7歳から教会でのオルガン演奏を始め、翌年からは時おり父の代役を務めるようになった。1846年に父がモンスのオルガニストに選任され、ロレはジュール・ドニューフの下で音楽の勉強を継続することになった。
1851年ブリュッセル王立音楽院に入学したロレは、ジャック=ニコラ・レメンスにオルガンを、フランソワ=ジョゼフ・フェティス対位法を師事した。彼は1853年にオルガンで1等賞を獲得している。
ロレは1855年パリを訪れた。レメンスは彼をオルガン制作者のアリスティド・カヴァイエ=コルに紹介するべく一筆執ったものの、ロレにさしたる感銘を受けなかったカヴァイエ=コルは彼に何も教えようとしなかった。しかしながら、ハーモニウム制作者のヴィクトル・ムステル(Victor Mustel)に出会ったロレはパリに残ることを決めた。彼はシュレンヌとパリのノートル=ダム=デ=ヴィクトワール教会〔訳注:パリ2区1619年に創建されたバシリカ。(Basilica of Notre-Dame-des-Victoires)〕のオルガニストに就任する。その後、第二帝政期の1855年から1885年には、彼は国のバシリカとなったサン・ジュネヴィーヴ教会(現在のパンテオン)に建造された最新のオルガンのオルガニストとなった。これはカヴァイエ=コルが制作したものだった。また、1858年から1866年にかけてはルイ・ニデルメイエールが合唱指揮者を務めるサン=ルイ=ダンタン教会〔訳注:パリ第9区にある教会。1858年にカヴァイエ=コルのオルガンが入っている。(Église Saint-Louis-d'Antin)〕のオルガニストも兼務した。
1858年ににオルガンの教授として迎えられた彼はガブリエル・フォーレアンリ・ルトカールウジェーヌ・ジグーら、当時のフランスを代表するオルガン奏者を育てた。
若くして死亡したロレの兄弟のシャルル(Charles)も音楽家、作曲家であった。また、ロレの妻であるPhilippine Coloniusも才能ある音楽家だった。2人の息子のも音楽家かつ音楽学者であり、高名なエジプト学者である。サン=サーンスの友人であった彼はファラオの時代の音楽や楽器に関心を持つようになり、民族音楽学者としてSud de la Valléeの舞踏や音楽を書き起こしたのである。
ロレはコロンブに没した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「クレマン・ロレ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.