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クレメンス・クラウス : ミニ英和和英辞書
クレメンス・クラウス
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


クレメンス・クラウス : ウィキペディア日本語版
クレメンス・クラウス

クレメンス・ハインリヒ・クラウスClemens Heinrich Krauss, 1893年3月31日 - 1954年5月16日)はウィーン出身の名指揮者
== 生涯 ==
母親はウィーン宮廷歌劇場(後のウィーン国立歌劇場)のソロ・バレリーナで、当時まだ17歳にもならないクレメンティーネ・クラウスであり、私生児だったクラウスは外交官だった祖父の下で育った。クラウスの持つそのエレガントな美貌から、父親はハプスブルク家の人間ではないかという噂が絶えず、バルタッツィ侯爵(ルドルフ皇太子と心中したマリー・ヴェッツェラの叔父で当時稀代のプレイボーイ)、ヨハン・サルヴァトール大公、あるいは皇帝フランツ・ヨーゼフ1世などと言われている。
10歳でウィーン少年合唱団に入団し、その後ウィーン音楽院で作曲家リヒャルト・ホイベルガーに学ぶ。リガニュルンベルクシュテッティングラーツフランクフルトなど各地の歌劇場で研鑽を積んだ後、1929年フランツ・シャルクの後任としてウィーン国立歌劇場の音楽監督に、また翌年ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの後任としてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任する(クラウスが辞任後ウィーン・フィルは常任指揮者制そのものを廃止し、70年を経た現在もなお復活の予定はない)。クラウスはまさにウィーンを掌中に収めたかに見えたが、折りしも1928年に始まった世界恐慌で演奏会やオペラへの客足が鈍り(ウィーン・フィルの演奏会のチケットなど楽員が内輪で捌かねばならないほどだった)、またクラウスは当時前衛的だった作品をプログラムに盛んに取り上げたため各方面から強い反発を受けた。
1934年に国立歌劇場を失脚してウィーンを離れた後、1935年ナチスと衝突して辞任したエーリヒ・クライバーの後任として、ベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任する。また1937年にはナチスによって辞任に追いやられたハンス・クナッパーツブッシュの後任としてバイエルン国立歌劇場の音楽監督に就任する。1941年からはやはりナチスによりザルツブルク音楽祭の総監督に任命されている(これが災いし、戦後は1952年まで音楽祭から締め出されてしまう)。この戦前、戦中のナチスとの協力関係が後に指弾されることになるが、クラウスはフルトヴェングラー同様に最後までナチス党員ではなく、ナチスの下で要職に就く一方、ナチスの手からユダヤ人音楽家を少なからず救ったとも言われている。戦後クラウスは、彼自身のナチスに対する日和見的な態度を強く恥じ、反省したという。
第二次世界大戦終結直前の1944年、空襲が激しくなったウィーンに戻ってウィーン・フィルと行動を共にする。1945年、ソ連軍がウィーンを目前に迫った4月2日にウィーン・フィルと戦中最後の演奏会を行う(曲目はブラームスの「ドイツ・レクイエム」)。そしてソ連軍によるウィーン占領直後、オーストリア独立宣言の日(4月27日)には、解放記念コンサートでウィーン・フィルを指揮する(曲目はベートーヴェン『レオノーレ』序曲第3番シューベルト交響曲第7(8)番「未完成」チャイコフスキー交響曲第5番)。その後、ナチスに協力したという容疑で連合軍により演奏活動の停止を命ぜられたが、1947年に非ナチ化裁判において無罪となり、活動を再開した。1954年に亡くなるまでウィーンを中心にヨーロッパや中南米で活躍した。
戦後の活動で注目に値するのは、1952年のザルツブルク音楽祭においてリヒャルト・シュトラウスの「ダナエの愛」の初演を行ったこと(1944年にすでに作曲家自身の前でゲネプロまで行ったが、ナチスの指示により公演中止となった)、および1953年バイロイト音楽祭ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」「パルジファル」を指揮して大成功を収めたことである。バイロイト出演は、ヴィーラント・ワーグナーが音楽祭再開後に推し進めたいわゆる「新バイロイト様式」に、ハンス・クナッパーツブッシュが抗議して出演をキャンセルしたことに伴い実現した(ヴィーラントは翌年以降もクラウスに任せるつもりだったが、クラウスの死により急遽クナッパーツブッシュと和解して呼び戻した)。
戦前の華麗な経歴とは対照的に、戦後は特に重要なポストに就くことはなかったが、生粋の劇場人であるクラウスは(母がバレリーナだったため「生まれずして舞台に立っていた」と自らを語った)、1955年に再建予定のウィーン国立歌劇場の音楽監督への復職を切望しており、そのためにライヴァルのエーリヒ・クライバーに対する妨害工作を行ったといわれている(因みにエーリヒ・クライバーは後にベルリン国立歌劇場に復帰する)。しかし最終的に時の文部大臣の指示によりカール・ベームが次期監督に決定し、このショックがクラウスの死を早めたと言われている。決定の直後に失意のクラウスはメキシコへ演奏旅行に出かけ、演奏会直後に心臓発作のため急逝した。最後の演奏会の曲目は、ハイドン交響曲第88番(クラウスはこの曲を得意としてよく取り上げた)、デュカスの交響詩「魔法使いの弟子」、ブラームスピアノ協奏曲第2番ベートーヴェン『レオノーレ』序曲第3番であった。クラウスはメキシコには行きたくなかったので、わざと主催者側に高額の報酬を要求したが、その要求が受け入れられてしまったため行かざるを得なくなったと言われている。ウィーンの市民はみな悲しんでクラウスのために半旗を掲げたと伝えられる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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