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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
クレメンス・ヴェンツェル・ロタール・ネーポムク・フォン・メッテルニヒ=ヴィネブルク・ツー・バイルシュタイン(Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich-Winneburg zu Beilstein、1773年5月15日 - 1859年6月11日)は、コブレンツ(現:ドイツ・ラインラント=プファルツ州の都市)出身。オーストリアの政治家として活躍し、外相としてウィーン会議を主宰したほか、のちオーストリア宰相に就任し、ナポレオン戦争後の国際秩序であるウィーン体制を支えた。ロスチャイルド家のザーロモン・ロートシルトと親交があった。 == 生涯 == === 青年期 === ドイツのトリーア選帝侯領の都市コブレンツで、メッテルニヒ伯爵の家に生まれた。16歳の時にフランスのストラスブール大学(ストラスブール)に入学して外交学などを学んだ〔『メッテルニヒ』p.19〕。フランス革命が勃発すると、その革命軍がアルザスやラインラントを占領した。この経験は、その後激化するナポレオン戦争とあわせ、メッテルニヒのナショナリズムに対する強い警戒心を育むことになった。 1790年、両親の指示で革命騒ぎの残るストラスブールを離れる。転居先のフランクフルトでは、同年2月に崩御していた皇帝ヨーゼフ2世の後継としてレオポルト2世の戴冠式が行われる予定であり、これに参加するようにとの父の意向であった。ここでメッテルニヒは17歳にしてカトリック系伯爵団の式部官に任命され、プロテスタント系伯爵団の式部官と2人で、戴冠式を仕切る役に就いた。この経験は、後に中央政界で活躍するメッテルニヒに多くの要人とのコネクションをもたらした〔『メッテルニヒ』pp.22-25〕。 戴冠式後、父ゲオルクはオーストリア領ネーデルラント総督府公使に任命される。メッテルニヒは、マインツの大学で勉強を続けながら、休みの日には総督府のあるブリュッセルに赴き、父の仕事を手伝った。1792年3月、レオポルト2世が崩御すると、またも式武官に任命され、フランツ2世の戴冠式を取り仕切った。フランス革命戦争が本格化すると、父の務めるネーデルラント戦線に赴き、総督府の伝令役として実際に戦場を駆け回った。 1794年には、軍費調達のために渡英する。ここで国王ジョージ3世をはじめ、ピット首相、フォックス外相などの政界の重要人物に革命戦争の現状を説き、イギリスの反革命化工作に尽力した。中でも、保守主義の思想家・重鎮議員のエドマンド・バークと懇意になったことは、メッテルニヒ自身の保守思想にも影響を与えた〔『メッテルニヒ』pp.33-35〕。 メッテルニヒ一家はオーストリアのウィーンに逃れ、ウィーンでマリア・テレジアの前宰相ヴェンツェル・アントン・カウニッツ公爵の孫娘エレオノーレ・カウニッツと結婚、侯爵に封じられて高級官職への道がひらかれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クレメンス・フォン・メッテルニヒ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Klemens von Metternich 」があります。 スポンサード リンク
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