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クレランドン伯爵エドワード・ハイド : ミニ英和和英辞書
クレランドン伯爵エドワード・ハイド[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
: [はく]
 【名詞】 1. count 2. earl 3. eldest brother 4. uncle 5. chief official 
伯爵 : [はくしゃく]
 【名詞】 1. count 2. earl 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

クレランドン伯爵エドワード・ハイド ( リダイレクト:エドワード・ハイド (初代クラレンドン伯爵) ) : ウィキペディア日本語版
エドワード・ハイド (初代クラレンドン伯爵)[ちょうおん]

初代クラレンドン伯爵エドワード・ハイド(, 1609年2月18日 - 1674年12月9日)は、イングランドの政治家・歴史家・貴族。
1640年庶民院議員となり、穏健進歩派としてチャールズ1世の専制政治を批判した。しかし国王大権の剥奪など急進的改革には反対し、王と議会の和解に努めた。清教徒革命が勃発すると立憲王政派として行動して国王の信任を得た。1645年には皇太子チャールズ(後のチャールズ2世)とともに亡命し、彼の亡命宮廷に仕えた。
1660年王政復古後にはチャールズ2世の重臣として国政を主導、長期議会初期の立法を基礎とした立憲王政の確立を目指した。1661年から1665年に制定された一連の非国教徒弾圧法は彼の名をとって「クラレンドン法典」と呼ばれているが、彼自身はこれに否定的だった。英蘭戦争の敗北などで批判が高まり、1667年に失脚。フランスへ亡命し、歴史書『』を著した。
1660年にハイド男爵、1661年にクラレンドン伯爵に叙された。
アン・ハイドはイングランド国王ジェームズ2世の最初の妻であり、したがってイングランド女王メアリー2世アンは外孫に当たる。
== 概要 ==
1609年庶民院議員を務めた地主の子として生まれる。オックスフォード大学マグダリン・ホールミドル・テンプル法学院で学び、法廷弁護士となる(''→生い立ち'')。
第2代フォークランド子爵ルーシャス・ケアリーらと交流を深めて穏健進歩派の論客となり。1629年以来議会を招集せずに専制政治を行っていたチャールズ1世やその側近の初代ストラフォード伯爵トマス・ウェントワースを批判した(''→反専制の進歩派となる'')。
1640年に11年ぶりに召集された議会(短期議会長期議会)で庶民院議員に当選して政界入りし、親政期に行われた圧政を追求した(''→庶民院議員として政界入り'')。1641年のストラフォード伯弾劾にも賛成したが、この頃から急進派議員と議会外大衆の急進活動を懸念するようになる。議会と国王の均衡を求める穏健派として、同年に可決された『議会の大諫奏』については国王大権の干犯として反対した(''→急進的進歩派を懸念'')。
以降国王に近しい立場になって「立憲王党派」と呼ばれるようになり、ジョン・ピムら急進派議員と対立を深めた。1642年1月に国王が急進派議員をクーデタ的に逮捕しようとして失敗してヨークへ逃れると、議会は急進派が掌握するところとなった。彼も5月に逮捕の危機に晒されてヨークの国王のもとに逃れた(''→立憲的国王派として'')。国王の信任を受け、1643年には財務大臣に任じられた。内乱勃発後も穏健な王党派として議会と国王の和解を目指したが、和平交渉は実を結ばなかった(''→清教徒革命をめぐって'')。
国王軍の旗色が悪くなった1645年に国王の命令で皇太子チャールズ(後のチャールズ2世)とともに亡命した。当初ジャージー島オランダで暮らし、パリに作られたチャールズの亡命宮廷には積極的に参加しなかったが、1651年頃からチャールズの側近として亡命宮廷の中心人物となり、王政復古の下地作りに励んだ(''→皇太子の亡命宮廷で'')。
1658年クロムウェルの死でイングランド共和国が動揺すると、王政復古へ向けた政治工作を本格化させ、1660年ジョージ・マンク将軍の取り込みや革命期の行動を大逆罪に問わないことを保証したなどによって議会に王政復古を決議させることに成功した。国王とともにロンドンへ帰還し、以降国王最大の側近として7年にわたってイングランドの国政を主導した(''→王政復古'')。
国王親政ではなく、長期議会初期に制定された諸法によって制限された立憲王政を目指した。共和政期の遺産も受け継ぎ、国王大権を基礎とする封建的財政を復活させず、共和政期に確立された国民への恒常的課税を基礎とする近代的財政をそのまま採用した(''→立憲王政体制を目指して'')。革命派への復讐を求める議会の騎士派(王党派)を抑え、復讐は弑逆者など一部の者に限定し、原則として革命期の行動については不問とした。また共和国政府に所領を没収された者には所領を返還したが、罰金を科されて自発的に所領を売り払ったケースは返還なしとした。この処置は王党派の不満を招いた(''→復讐の抑止'')。
宗教政策では寛容に失敗し、議会の清教徒革命追及の機運に押されて、清教徒を国教会から排除して非国教徒にし、彼らを弾圧する法律を次々に法定した。これらは「クラレンドン法典」と呼ばれるが、彼自身はこうした非寛容政策には批判的だった(''→宗教政策'')。
外交政策では1662年にはダンケルク売却を実施して批判を集めた。1665年にはオランダとの間に英蘭戦争が勃発したが、敗北した上に財政が疲労する結果に終わったのでさらなる批判を受けた(''→外交政策'')。
1665年ペスト流行や1666年ロンドン大火で批判はさらに高まった。1667年8月、議会で政府批判が高まることを恐れたチャールズ2世が議会開会前に彼を政府から追放しようとし、その圧力で大法官辞職に追い込まれた(''→失脚'')。10月に召集された議会から大逆罪で告発されたため、フランスへ亡命。そこで名著と名高い歴史書『』を著した。1674年ルーアンで死去した(''→亡命と死去'')。
歴史家は長期議会初期の「国王と議会の均衡」にこだわって議院内閣制に踏み出せなかった人物としながらも、復讐政策をとらず、王政復古を成功させたことを評価している(''→人物・評価'')。
1660年にハイド男爵、1661年にクラレンドン伯とコーンベリー子爵に叙せられた(''→爵位'')。
爵位は長男のが継承した。次男ローレンス・ハイドも後にロチェスター伯爵に叙される。また娘アン・ハイドはヨーク公ジェイムズ(のちのイングランド国王ジェイムズ2世)と結婚し、後のイングランド女王メアリー2世アンを儲けている(''→家族'')。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エドワード・ハイド (初代クラレンドン伯爵)」の詳細全文を読む




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