|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。
カッシウェラウヌス(Cassivellaunus, 生没年不詳)は、紀元前1世紀に実在したブリトン人の王で、紀元前54年の共和政ローマの将軍ガイウス・ユリウス・カエサルによる第二次ブリタンニア遠征への抵抗を指揮した。イギリスの伝説では、ジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』にはブリタンニア王の1人カッシベラヌス(Cassibelanus)として、マビノギオンやウェールズのトライアドにはBeli Mawrの子カスワッラウン(Caswallawn)として登場している。 ==歴史== カッシウェラウヌスは歴史上名前のわかっているブリトン人の最初の1人である。カエサルの『ガリア戦記』の中で、カッシウェラウヌスはカエサルの第二次ブリタンニア遠征に対抗して結集したブリトン軍の指揮を任された。カエサルはカッシウェラウヌスの種族について言及していないが、その領土はタメシス川(現:テムズ川)の北とあり〔カエサル『ガリア戦記』5.18〕、これは後にカトゥウェッラウニ族(Catuvellauni)が定住した場所と一致する。 カエサルによると、それ以前のカッシウェラウヌスは他のブリタンニアの種族と絶えることなく戦争を繰り返していたという。当時ブリタンニアで最も勢力のあったトリノヴァンテス族の王イニアヌウェティティウス(Inianuvetutus、イマヌエンティウスとも)を倒し、その息子マンドゥプラキウス(Mandubracius)がガリアにいたカエサルのところに逃げてきた。 カエサルの軍が食料調達に出たところをカッシウェラウヌスは攻撃したが、逆襲に遭った。カエサルたちがタメシス川を渡った後は、カッシウェラウヌスは大軍を解散させ、知り尽くした土地でチャリオット(戦車)を使ったゲリラ戦を仕掛けた。 ケニマグニ族、セゴンティアキ族(Segontiaci)、アンカリテス族(Ancalites)、ビブロキ族(Bibroci)、カッシ族(Cassi)の5部族がカエサルに降伏し、カッシウェラウヌスの本拠地を教えた(現在のホイートハムステッド (Wheathampstead)のデヴィルス・ダイク(Devil's Dyke)と言われる〔A History of Britain, Richard Dargie (2007), p. 19〕)。カエサルはそこを包囲して攻撃した。その間、カッシウェラウヌスはキンゲトリクス(Cingetorix)、カルウィリウス(Carvilius)、タクシマグルス(Taximagulus)、セゴウァクス(Segovax)という4人のカンティウム(現:ケント)地方の王たちに使者を送り、軍勢を結集して海岸にあるローマ軍の野営地を襲撃するよう伝えたが、ローマ軍はそれを撃退し、ルゴトリクス(Lugotorix)という族長を捕虜にした。この敗北と自分の領土が荒らされているのを知って、カッシウェラウヌスは降伏した。 調停にあたったのはカエサルと同盟を結ぶベルガエ系アトレバテス族の王コンミウスだった。人質と租税、さらにトリノヴァンテス族の王に復位したマンドゥプラキウスに対してカッシウェラウヌスが攻撃しないことで合意が得られた。それからカエサルは干魃による不作で動揺の起きたガリアに戻り、ガリア戦争の平定に努めた〔カエサル『ガリア戦記』 5.8-23〕〔カッシウス・ディオ『ローマ史』 40.1-3 〕〔オロシウス『異教反駁史』 6.9 〕。以後97年間、ローマはブリタンニアに戻って来なかった。 ギリシャの著作家ポリュアエヌス(Polyaenus)はその著書『Stratagemata』の中で、カエサルが装甲した戦象を使ってカッシウェラウヌス軍が守備する川を渡ったという逸話を語っている〔 ポリュアエヌス『Strategemata』 8.23.5 〕。この突飛な主張はおそらく43年のローマのブリタンニア征服(Roman conquest of Britain)で皇帝クラウディウスが象をブリタンニアに連れて行ったこと〔カッシウス・ディオ『ローマ史』 60.21 〕と混同しているものと思われる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カッシウェラウヌス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Cassivellaunus 」があります。 スポンサード リンク
|