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クロード・ロバート・イーザリー(Claude Robert Eatherly、1918年10月2日 - 1978年7月1日)は、アメリカ空軍の軍人。最終階級は少佐。 テキサス州出身。酒豪でギャンブル好きであったが、その操縦技術は天才的といわれた。 第509混成部隊〔第3話 「原爆投下部隊・天才パイロットの光と影」 - テレビ朝日 開局50周年記念特別番組 『原爆・63年目の真実』 2008年8月2日放送〕に所属。太平洋戦争末期の広島原爆投下作戦および長崎原爆投下作戦において、気象観測機(ストレートフラッシュ)のパイロットを勤めた。直前の7月20日には、皇居への攻撃は厳禁とされていたのに関わらずパンプキン爆弾を皇居に投下(実際は呉服橋に着弾)した。〔この独断行為は昭和天皇の殺害を目論んだ行動とも言われている。(テレビ朝日『原爆・63年目の真実』2008年8月2日放送より)アメリカ軍は戦後における日本の占領政策の観点から、皇居への爆弾投下や機銃掃射を厳しく禁じており、イーザリーのこの行為は軍律違反とされた。先述の番組の中では原爆投下作戦に参加した兵士にインタビューするシーンがあり「イーザリーは英雄になりたがっていた」「奴は野心のある人物」とイーザリーの行動を批判する意見が放送された。〕 8月6日の作戦においては、エノラ・ゲイに数十分先行してテニアン島を離陸し、広島上空の天候を観測して爆撃可能の情報を打電している。その後、東京への核攻撃に備えた演習に参加することになっていたが、日本の降伏により中止された。 1946年7月1日、イーザリーはクロスロード作戦のABLEテストに参加し、実験後に行われた飛行機での大気中の放射性降下物の調査の際に被曝した。妻が二度流産したのち、ジョン・ハーセイの著書"Hiroshima"により自身の被爆と被爆者の実態を知ったことから、以降苦悩することとなる。1947年に除隊した。 ==戦後の苦悩== 戦後、イーザリーは英雄として扱われるが、広島・長崎作戦に参加した軍人でほぼただ1人、原爆投下の正当性について疑問視し続け、2つの原爆投下に関わったことに悩んでいた。1960年11月東京新聞のインタビューに「原爆投下は誤りであった」と答えている。 退役後、イーザリーは数回強盗事件を起こして逮捕された。そして、イーザリーは精神に異常をきたしたとしてテキサス州ウェイコのアメリカ軍の精神病院(Veterans' Administration Hospital)に一時隔離される。その後は妻にも逃げられ、酒に溺れる日々を送った。その後は喉頭癌で声を失い、1978年にヒューストンで生涯を終えた。命日は奇しくもクロスロード作戦で被曝した日であった。死後、ヒューストンのヒューストン国立墓地(Houston National Cemetery)に埋葬された。 病院の中から哲学者ギュンター・アンデルス(Günther Anders)との文通を交わし始めた。アンデルスはイーザリーの死後、交わされた書簡を『ヒロシマわが罪と罰 -原爆パイロットの苦悩の手紙』として出版している。 509混成部隊の同僚であるチャールズ・スウィーニー少佐(当時)からは、原爆投下作戦に従事したことにより精神異常を来したというのは、イーザリーが戦後にテキサス州で雑貨屋に強盗に入り逮捕され、精神異常を理由に罪から逃れるためにした自己弁護の一つであり、でっち上げの話であると批判されている〔チャールズ・W・スウィーニー『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』原書房 2000年 135頁 ISBN 978-456203218-1〕。 ==脚注== 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クロード・イーザリー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Claude Eatherly 」があります。 スポンサード リンク
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