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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
クロード・バロン(Claude BalonあるいはBallon、1671年 - 1744年5月9日)は、フランスのバレエダンサー・バレエ指導者・振付家・作曲家である〔しばしば、「ジャン・バロン」(Jean BalonまたはBallon)と呼ばれるが、これは誤りである。〕〔『オックスフォード バレエダンス辞典』410-411頁。〕。美貌と表現力を兼ね備えたダンサーで、同時期にパリ・オペラ座で活躍したミシェル・ブロンディと人気を二分した〔〔佐々木、83-84頁。〕〔鈴木、87-88頁。〕。バレエ用語の「バロン」('':en:Ballon (ballet)'')は、彼の名に由来するといわれる〔「バロン」(''ballon'')は跳ぶパにおいて、軽やかに跳び上がって空中に一瞬静止し、再び柔軟に床に下り立つことのできる踊り手の能力を指す用語。バロンと似た単語に「バロネ」(''ballonne'')がある。バロネは「ボール(または風船)のように膨らんだ」という意味で、軸足で踏み切って跳躍し(または跳躍の代わりにポワント(爪先)もしくはドゥミ・ポワント(足指の腹)で立ち)、瞬間的に動作する足を45度の角度に伸ばしてから、軸足のク・ドゥ・ピエ(足首の上)の位置に戻して着地するパで、跳ぶパの1種である。フランス文学者で舞踊評論家の佐々木涼子は、著書『バレエの歴史 フランス・バレエ史-宮廷バレエから20世紀まで』(2008年)で、バロネという単語もクロード・バロンの名に由来するという説を記述している。〕〔〔 〕。 == 生涯 == パリの生まれ〔。1690年にパリ・オペラ座に入り、ジャン=バティスト・リュリ作曲の『カドミュスとエルミオーヌ』(:en:Cadmus et Hermione)で舞台デビューした〔。バロンはすぐにその才能と魅力を認められて、人気ダンサーとなった〔〔。 当時のパリ・オペラ座には、ミシェル・ブロンディ(1675年から1677年頃 - 1739年8月6日)というもう1人の人気男性ダンサーが在籍していた〔〔。ブロンディはピエール・ボーシャンの甥でその指導を受け、後にパリ・オペラ座のに就任した人物であった〔〔。バロンとブロンディはほぼ同時期にパリ・オペラ座に入り、ライバルとして世評が高かった〔〔。ブロンディは個性的な踊りに優れていて、「史上最高の美男ダンサー」と評されていた〔。一方のバロンは、「この上もなく趣味が良く、比べようもないほど表現力に富む」と形容された〔。その時期のバロンを描いた肖像画では、『ギリシアのアマディス』(1699年)、『カーニヴァルと馬鹿騒ぎ』(1704年)などが現存する〔。 バロンは1699年に、バレエ史上初のバレリーナの1人として知られるマリー=テレーズ・スュブリニとともにロンドンで舞台に立った〔〔『オックスフォード バレエダンス辞典』258頁。〕。バロンとスュブリニが踊ったデュエットのうちいくつかは、ラウール=オージェ・フイエが考案した舞踊記譜法で記録が残されているため、再現が可能である〔。スュブリニの後継者として舞台に登場したフランソワーズ・プレヴォーとも共演した〔Women’s Work: Making Dance in Europe before 1800 Google ブックス 2014年5月10日閲覧。〕。1708年にバロンとプレヴォーは、ピエール・コルネイユ作の悲劇『オラース』(:en:Horace (play))の最後の場面を演じて好評を博した〔。 1712年頃にパリ・オペラ座を去って、ソーにあったデュ・メーヌ公夫人ルイーズ・ベネディクト・ド・ブルボンの小宮廷(ソー城)に出仕した〔。デュ・メーヌ公夫人の小宮廷では、1714年に『アポロとミューズたち』(''Apollo et les Muses'')というバレエ作品を上演してこちらも好評であった〔。『アポロとミューズたち』は、後のバレエ・ダクシオンの先駆的作品として認識されている〔。 1715年に当時5歳のルイ15世の舞踊教師に就任し、次いで1719年には「王のバレエの作曲家」に任命された〔〔Dictionnaire de la danse Page 34 2014年7月1日閲覧。〕。同じく1719年にピエール・ボーシャンの後任として、王立舞踊アカデミーの総裁に就任した〔〔。 1731年、「フランス児童の舞踊教師」という称号を授与された〔〔。1744年、ヴェルサイユにて死去した〔〔。バレエ用語の「バロン」は、彼の名に由来するといわれる〔〔〔。なお、マリー・サレは彼の個人的な弟子の1人であったという〔〔佐々木、100頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クロード・バロン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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