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クートの戦い : ミニ英和和英辞書
クートの戦い[とるこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

クートの戦い : ウィキペディア日本語版
クートの戦い[とるこ]

クートの戦い またはクート包囲戦(トルコ語ではクッテル・アマラ攻囲戦 とも呼ばれる)は第一次世界大戦における戦いのひとつ。クート(クート・エル・アマラあるいはクッテル・アマラ)に篭ったイギリス軍をオスマン帝国軍は包囲し、英軍救出部隊を阻止してこれを陥落させた。
==背景==
セルマン・パク会戦()に敗れた英軍はクート方面に退却していた。1915年12月3日、英印軍の第6プーナ歩兵師団を指揮していた少将はクートに到着。なおもオスマン帝国軍が追撃してきていたためバスラまで退却したかったが、占領地域を放棄して逃げることはイギリス本国悪評の種となるしクートは戦略要点であると考えてクート固守することに決めた〔樋口正治『自一九一四年至一九一八年 近東に於ける前大戦の考察』p.35,105。タウンゼンドは、クートは戦略的要点であり、ここに停止することは2つの有利な点があると考えた。第1に、クートはイギリス軍の作戦根拠地から遠隔していない。第2に各方面からの交通の要点なので、この地点を占領すれば攻防いずれにも有利であると。彼はイギリス急援軍か、あるいはペルシャからロシア軍が少なくとも2月初句には来るものと信じていた。左は『自一九一四年至一九一八年 近東に於ける前大戦の考察』に拠るが、原典は彼の著書である。〕。
タウンゼンドは後方にいる将軍にこう電報を送った、「チトラルの時のように、私はクートを防衛するつもりです」〔p.80。チトラルとは今のパキスタンの一地区で、タウンゼンドは1895年守備に成功していた。〕。ニクソン将軍は、再び退却する方針には賛成しないし、タウンゼンドが優勢な敵部隊を阻止することによって部隊の義務を果たしていると返信した。
両軍ともに疲弊していたが実質的な〔イラクのオスマン帝国第6軍を指揮していたのはドイツ人のフォン・デル・ゴルツ元帥であったが、イラク軍の作戦指導に関しては積極的、直接的任務を果たしていない。実際にオスマン帝国在イラク軍の作戦指導を行ったのはオスマン帝国軍将校ヌーレディン・ベイハリル・ベイの両名であった。〕オスマン帝国軍イラク地域司令官ヌーレッディン・ベイは追撃を続行し、戦略要点を次々と奪取してチグリス川の架橋を占領した。12月7日から第35師団、第38師団、第45師団、第51師団の総計1万4千~5千の兵力をもって篭城軍の包囲攻撃を開始した。英篭城軍は約1万3千とほとんど同数の兵力であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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