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グエン・ヴァン・リン : ミニ英和和英辞書
グエン・ヴァン・リン
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


グエン・ヴァン・リン : ウィキペディア日本語版
グエン・ヴァン・リン

グエン・ヴァン・リン(, 漢字: 阮文霊, 1915年7月1日 - 1998年4月27日)は、ベトナム政治家ベトナム戦争時のベトコン政治指導者で、1986年-1991年、ベトナム共産党書記長。在任中、リンは、ベトナム経済の市場経済化をめざした経済計画「ドイモイ」(刷新)の強力な支持者であった。そのため、リンはしばしば、ペレストロイカを始めたソ連指導者になぞらえ、「ベトナムのゴルバチョフ」と称えられた〔Stowe, Judy: "Obituary: Nguyen Van Linh". ''The Independent''. April 28, 1998.〕。
== 経歴 ==
1915年7月1日、リンはハノイ近郊のフンイエンに生まれた。もっとも、この情報は未確認であり、彼はブルジョア家庭の出身であったらしい。本名はグエン・ヴァン・コック () で、後に「戦時名」 (nom de guerre) としてグエン・ヴァン・リンを採用することになる。14歳のとき、リンはフランスの植民地支配に抵抗する地下共産運動に関わるようになり、ベトナム革命青年同志会に参加した。1930年、16歳のとき、フランス人向けのビラを配布したことで、リンは逮捕され、1936年まで投獄された。釈放後、彼はベトナム共産党に参加した。
ベトナム南部において党組織の設立を支援するためサイゴンに派遣されたが、1941年から1945年まで再び拘留された。1945年、ベトナムはフランスの支配からの独立を宣言し、第一次インドシナ戦争が勃発する。リンは、南部中央局幹部として、南ベトナムにおける抗仏戦を指導した。ジュネーヴ会議後の1954年の改組で、南部委員会常任委員会委員・サイゴン=チョロン地区委員会書記に就任。1957年5月、北に呼び戻されたレ・ズアンを継いで、南部委員会書記に就任。1960年9月、ベトナム労働党第3回党大会において非公然党中央委員として秘密裏に選出〔坂村(2001年)、58ページ。〕〔第3期党中央執行委員会(1960-1976年) 〕。1961年、党南部中央局の再建とともに、同書記に就任。1964年10月、党政治局員のグエン・チー・タイン大将が南部の責任者として派遣されると、中央局書記を交代し、リンは副書記に就任した。ベトナム戦争中、彼は南ベトナムにおいて、アメリカの傀儡政府に対するゲリラ組織を指揮した。しかし彼の任務は、軍事上のものよりも組織上のものがほとんどであった。彼はまたプロパガンダを専門に扱い、ベトナムの利益となるようアメリカの政治に影響を及ぼす研究・企画を行っていた。彼はサイゴンの政府機関に潜入する特殊部隊を訓練した。1968年、リンはアメリカに対するテト攻勢を指揮し、この全土にわたる奇襲の成功は、ベトナム戦争の転換点となった。
1975年ベトナム戦争の終結およびベトナム再統一の後、ホーチミン市党委員会書記に就任。1976年12月のベトナム共産党第4回党大会において党政治局員に選出され、党内序列第12位となる〔第4期党中央執行委員会(1976-1982年) 〕。彼は、かつて資本主義体制であったベトナム南部について、ゆるやかに転換することを望み、党の同僚たちと対立した。1970年代末、彼は将来有望な党政治家と見られていたにもかかわらず、ホー・チ・ミンの後を継いだレ・ズアン書記長との論争を繰り返し、このことが彼の出世を妨げた。1982年3月、第5回党大会において、リンは政治局員と書記局員からはずされ、ヒラの中央委員に降格された〔坪井(1994年)、157ページ。〕。彼の友人によれば、リンは南ベトナムの将来に関する論争で、私企業を擁護し、その後に辞任した〔Shenon, Philip: "Nguyen Van Linh, Vietnam's Ex-Party Chief, Dies at 82.". ''New York Times''. April 28, 1998.〕〔"Nguyen Van Linh" in ''Encyclopedia of World Biography''. ISBN 978-0787625467.〕〔Crossette, Barbara: "Vietnamese Chief Building Political Base in South". ''New York Times''. February 3, 1989.〕。しかし、党内序列は第11位に昇格した〔参考資料 インドシナ 1982 『アジア動向年報』1982年版、239ページ。〕。
1980年代中頃、ベトナム経済は危機に瀕し、自由かつ市場ベースの経済が作られ、分別ある選択肢が多くの政治家に与えられた。このことは、1985年6月の第5期党中央委員会第8回総会において、リンが政治局に復帰することに繋がた。さらに翌86年12月の第6回党大会において、党書記長に選出された〔第6期党中央執行委員会(1986-1991年) 〕。さっそく、彼はベトナム経済の改革に着手した。諸問題の原因となったイデオロギーに基づく決定を止めるよう求め、私企業及び市場価格を容認し、集団農場を解体した。この政治上の変革は、「ドイモイ」と名付けられ、これはベトナム語で「刷新」を意味した。政治分野おいて、リンはアメリカ及び中国との関係改善を図った。
1987年5月末から党中央機関紙『ニャンザン』に、"NVL" の署名で「直ちになすべきこと」と題したコラムを書き、ベトナムの政治エリートにおける不正と無能を攻撃した〔〔"Nguyen Van Linh". ''San Francisco Chronicle''. April 28, 1998.〕〔白石(1993年)、185ページ。〕。
1989年には、ポル・ポト政権を排除するためカンボジアに派遣されていたベトナム軍に対し、撤退を命じた。これはポル・ポト派を支援する中国との関係改善の糸口となった。1990年9月3日、リン書記長はドー・ムオイ首相、ファム・ヴァン・ドン元首相とともに、秘密裏に中国の四川省成都を訪問し、江沢民総書記と会談した〔坪井(1994年)、26ページ。〕。この訪問は、1979年の中越戦争以来初めてのベトナム指導者の訪中であった。会談においては、「カンボジア問題」に関する中国側提案は拒否したが〔小倉(1993年)、171-172ページ。〕中越戦争時の捕虜交換や国境地帯の非武装化など、国交正常化への基本的条件の整備について大枠で合意した〔坪井(1994年)、26ページ。〕。
しかし、国内政治に関する限り、リンは変革の必要がほとんどないと考えていた。「多元的・多党的政府の政治機構の創設は、客観的に必要ではない」と語り、その一方で西洋型デモクラシー体制を「デマゴーグ・ブルジョワ民主制」と、いつも呼んでいた。1988年10月、とを解散し、多党制の芽を摘み取る予防的措置〔白石(1993年)、188ページ。〕を取った。
彼は古い共産主義政策を批評し、それらは不正を行う指導者たちの責任であるとした。このため、リンの政策は、共産党内のより保守的な勢力からは、常に批判の的となっていた。1991年6月、第7回党大会においてリンは書記長を退いたが、その1年も前から、彼の辞任は告知されていた。1989年に発作の疑いで入院しており、体調不良がその理由とされたが、しかし政治上の敵対者たちが、その辞任決定に関与したと思われる。書記長職は、リンの改革の支持者、ドー・ムオイが引き継いだ〔〔〔"Like Ceausescu". ''The Economist''. February 10, 1990.
"Vietnam Communist Party head secretly visited China". ''Japan Economic Newswire''. September 17, 1990.
"March of the poor and friendless (Vietnamese Communist Party holds its 7th Congress)". ''The Economist''. June 29, 1991.
"Nguyen Van Linh to retire as party chief next year". ''Japan Economic Newswire''. March 29, 1990.
"Vietnamese leader Linh hospitalized". ''Japan Economic Newswire''. November 29, 1989.〕。
1991年6月、党中央委員会顧問に就任し、1997年12月まで務めた〔"National Congresses of the Communist Party of Vietnam". ''Nhan Dan'' 〕〔グエン・ヴァン・リン同志 〕。
1996年の党大会における驚くべき演説、そして各国新聞社に対する一連の書簡に始まり、リンは自身の政策の成果を遂には放棄し、彼の祖国を搾取し、社会主義を傷つける外国の投資家を批難した。貧富の差の拡大を責め、投資と科学技術で支援するよりも、ベトナムに商品を投げ売りするアメリカ企業を批難した。リンは1998年4月27日、ホーチミン市において、肝臓癌のため逝去した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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