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フランシスコ・ハビエル・デ・ボルボン=パルマ・イ・ブラガンサ(, 1889年5月25日 - 1977年5月7日)は、ボルボーネ=パルマ家家長。カルリスタの一派によってスペイン王(王位請求者)として推された。フランス語名はフランソワ=グザヴィエ・ド・ブルボン=パルム()、イタリア語名はフランチェスコ・サヴェリオ・ディ・ボルボーネ=パルマ()。 == 生涯 == 最後のパルマ公ロベルト1世と2番目の妻マリーア・アントーニアの間の次男としてカマイオーレに生まれる。 第一次世界大戦中、兄シクスト(シクストゥス)とともにベルギー軍将校となっていたが、兄と共に妹ツィタが皇后だったオーストリア=ハンガリーの連合国との単独講和交渉に当たった。 母方の伯母マリア・デ・ラス・ニエベスの夫サン・ハイメ公アルフォンソ・カルロスはカルリスタの支持する「スペイン王アルフォンソ・カルロス1世」であったが、1936年に死去するとボルボン家のカルリスタ王位請求者の男系は断絶した。アルフォンソ・カルロス自身はグザヴィエを後継者に指名していたが、他にもアルフォンソ13世の王子たちやアルフォンソ・カルロスの姪ブランカの末子であるトスカーナ大公子カルロス・ピオを推す諸派があり、カルリスタは内部分裂した。グザヴィエは1936年から1952年まで摂政を、その後スペイン王として「ハビエル1世」()を称した。 第二次世界大戦中、グザヴィエはベルギー軍の砲兵大佐として従軍した。ベルギーの降伏後はスペインへ亡命しようとしたが、フランシスコ・フランコに拒否されたためにに参加した。マキを支援していたが、1944年7月22日にゲシュタポによって逮捕された。「夜と霧」が適用されてクレルモン=フェランに収監された後、連合国軍の進撃に伴ってナッツヴァイラー強制収容所、ダッハウ強制収容所などを転々とし、1945年5月4日にアメリカ軍によって解放された。 晩年の1974年11月25日に甥ロベルト・ウーゴが死去すると、ボルボーネ=パルマ家家長および名目上のパルマ公位を継いだが、2年半後の1977年5月7日に自身も死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハビエル・デ・ボルボン=パルマ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Prince Xavier of Bourbon-Parma 」があります。 スポンサード リンク
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