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グスタフ・バウアー : ウィキペディア日本語版
グスタフ・バウアー[ちょうおん]

グスタフ・アドルフ・バウアーGustav Adolf Bauer1870年1月6日 - 1944年9月16日)は、ドイツ政治家ドイツ社会民主党員。ヴァイマル共和国初期に首相を務めた。

== 経歴 ==
1870年1月6日、東プロイセンのダルクエーメン(現ロシア連邦オジョルスク)で生まれた。父は裁判所職員で、先祖は1731年に東方移住した南ドイツからの移民だった。1884年にケーニヒスベルク(現カリーニングラード)の国民学校を卒業後、弁護士事務所で書記として働く。1888年に大病して片足を切断した。1893年から著名な法律事務所で事務長を務め、1895年に労働組合「ドイツ事務員中央協会」を設立。1902年に労働組合活動を理由に解雇されるとレストランを経営するが一年で辞め、「中央労働者書記局」の代表となる。1908年からドイツ労働組合委員会第二書記を務める。1912年には新設の国民保険の監査役会長に選出される。ドイツ社会民主党に入党して党内では右派に属し、第一次世界大戦を支持した。1912年、ドイツ帝国議会議員に選出される。1915年から議会財務委員。1918年、宰相バーデン公マクシミリアンにより労働庁政務次官に任命される。
1918年のドイツ革命によるヴァイマル共和国発足後、ヴァイマル制憲会議議員となる。国会議員の地位を維持し、1919年2月にシャイデマン内閣に労働大臣として入閣。ヴェルサイユ条約の受諾に反対したシャイデマンが首相を辞任したことを受けて、1919年6月より首相に就任した。同じくヴェルサイユ条約の受諾に反対したドイツ民主党が連立政権から離脱したため、社会民主党・中央党による連立内閣であった。ヴェルサイユ条約調印には賛成だったが、個人的にはその条件に反対しており、就任当日は連合国側に条件面で抗議すると表明したものの、新たな戦争を招きかねないという理由から翌日に撤回した。在任中はヴェルサイユ条約調印のほか、鉄道を国有化し、マティアス・エルツベルガー財務相と共に財政改革を進めた。カップ一揆に対する対応のまずさから党や労働組合の支持を失い、1920年3月26日に首相を辞任した。
首相退任後も党友の後継首相ヘルマン・ミュラーの内閣で大蔵大臣(''Reichsschatzministerium''。財務大臣とは別)及び交通大臣を務め、ヴィルト内閣でも大蔵大臣として入閣した。1925年、汚職スキャンダルのため社会民主党を除名されたが、翌年党の審査会により除名を取り消されている。1928年を最後に国会議員を辞し政界を引退。1933年のナチ党政権獲得の直後、脱税容疑で1週間拘留されたが、これは政治的冤罪と考えられている。以後は公の場に姿を現すことはなく、第二次世界大戦中の1944年にベルリンで死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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