翻訳と辞書
Words near each other
・ グスタフ・ヘルツ
・ グスタフ・ベングトソン
・ グスタフ・ホルスト
・ グスタフ・ホルン
・ グスタフ・マイリンク
・ グスタフ・マハティ
・ グスタフ・マルメ
・ グスタフ・マーラー
・ グスタフ・マーラーの作品一覧
・ グスタフ・マーラー・ユーゲント管弦楽団
グスタフ・モロー
・ グスタフ・ヤノーホ
・ グスタフ・ヤンション
・ グスタフ・ライヒャルト
・ グスタフ・ラッデ
・ グスタフ・ランゲ
・ グスタフ・ラーション
・ グスタフ・ラーソン
・ グスタフ・ラートブルフ
・ グスタフ・リッター・フォン・カール


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

グスタフ・モロー : ミニ英和和英辞書
グスタフ・モロー[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

グスタフ・モロー ( リダイレクト:ギュスターヴ・モロー ) : ウィキペディア日本語版
ギュスターヴ・モロー[ちょうおん]

ギュスターヴ・モロー(, 1826年4月6日1898年4月18日)は、フランス象徴主義画家である。パリに生まれパリで亡くなった。聖書神話に題材をとった幻想的な作風で知られる。
印象派の画家たちとほぼ同時代に活動したモローは、聖書やギリシャ神話をおもな題材とし、想像と幻想の世界をもっぱら描いた。彼の作品は19世紀末のいわゆる『世紀末』の画家や文学者に多大な影響を与え、象徴主義の先駆者とされている。
== 生涯 ==

=== 修行時代と初期の画業 ===
1826年、パリに生まれた。父はパリ市とポリーヌ・デモティエの建築家ルイ・モロー (Louis Moreau)。母は音楽家だった。ギュスターヴは体が弱く、6歳のころから素描をして遊ぶようになった。1843年に最初のイタリア旅行をした。1844年にフランソワ=エドゥアール・ピコ (François-Edouard Picot 1786-1868) の弟子となった。1846年エコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入学。1848年と1849年に2度にわたりローマ賞のコンクールに挑戦し失敗した。その後、エコール・デ・ボザールを退学。親交のあったテオドール・シャセリオーをはじめとしたロマン派の画家から影響を受けた。シャセリオーの様式的影響は《雅歌》〔モロー《ソロモンの雅歌》''The Song of Songs'' 1853年、油彩、300x319 cm、ディジョン美術館。〕(ディジョン美術館)や《アルベラの戦いから逃亡したのち、疲れて足を止め池から水を飲むダリウス》(モロー美術館)に見られる。1851年に制作した《ピエタ》(現在所在不明)には、ウジェーヌ・ドラクロワの影響がみられる。
モローは既に1849年から1854年までの間にいくつかの注文を当時のフランス政府から受注している。1852年に《ピエタ》をサロンに出品する(サロン初出品)。1855年には《クレタ島の迷宮の中のアテナイの若者たち》(ブルー美術館)〔モロー《クレタ島の迷宮にいるミノタウロスに捧げられるアテネ人たち》1854-55年、106x200cm、キャンヴァスに油彩、ブール=カン=ブレス、ブルー美術館。〕を描き、パリ万博に出品した。この作品にはロマン主義の劇的な造形言語と、ルネサンスの古典主義に基づく秩序、バランス感覚、「適正さ」 decorum に関するアカデミーの理想の融合を見ることができる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ギュスターヴ・モロー」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Gustave Moreau 」があります。




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.