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グスタフ・ラートブルフ : ミニ英和和英辞書
グスタフ・ラートブルフ[ぶる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ブル : [ぶる]
 【名詞】 1. bull 2. (n) bull

グスタフ・ラートブルフ : ウィキペディア日本語版
グスタフ・ラートブルフ[ぶる]

グスタフ・ラートブルフ(Gustav Radbruch、1878年11月21日 - 1949年11月23日)は、ドイツの法哲学者、刑法学者刑事政策家。フランツ・フォン・リスト(Franz von Liszt)門下。
==経歴==

*1878年11月21日、裕福な商人ハインリッヒ・ラートブルフとその妻エンマの子として、リューベックに生まれる。同地にてカタリーネ・ギムナジウム(Katharineum)に入学し、ギリシア語ラテン語を習得する。
*ライプツィヒ大学に籍を置いていた際に、カール・ビンディング(Karl Binding)がフランツ・フォン・リストの教科書の危険性について警告したことがきっかけとなり、かえってラートブルフはリストのいるベルリンへ赴き、リストの門下となる〔アルトゥール・カウフマン『グスタフ・ラートブルフ―生涯と作品』(『同志社法学』第326号、2008年)19頁。宮澤浩一編『西ドイツ刑法学 学者編』(成文堂、1978年)467頁。〕。。
*1901年 第一次司法試験に合格。司法試補職(Rechtsreferendariat)のため、故郷のリューベックに帰る。しかし、研究のためにリストのゼミナールに戻る。
*1902年5月 博士学位取得のための口述試験に合格。『相当因果惹起の理論』("Die Lehre von der adäquanten Verursachung")
*1903年 教授資格論文をリストの推薦で、ハイデルベルク大学のカール・フォン・リリエンタール(Karl von Lilienthal)に提出。同大学私講師
*1914年9月 員外教授に招聘される。
*1915年 娘レナーテ・マリア(Renate Maria)生まれる(1939年、雪崩によって死去)。
*1918年 息子アンゼルム(Anselm)生まれる(1943年、スターリングラードの前で兵士として死去)
*1919年 キール大学正教授。
 *この頃、ドイツ社会民主党に入党。
*1921年1922年 ヴィルト内閣において司法相に就任。いわゆる「ラートブルフ草案」を提出。
*1922年-1923年 シュトレーゼマン内閣において司法相に就任。
*1926年 ハイデルベルク大学正教授。
*1933年 教職を罷免される。
*第二次世界大戦後、ハイデルベルク大学に復職。法学部長を務める。
*1949年11月23日、ハイデルベルクで死去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「グスタフ・ラートブルフ」の詳細全文を読む




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