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クチュルク(Küčülüg)は、モンゴル高原東部の遊牧集団ナイマン部の王族。西遼(カラ・キタイ)の第4代皇帝。 『遼史』では屈出律、『元史』では曲出律、『元朝秘史』では古出魯克の名で表記されている。ペルシア語表記では『世界征服者の歴史』および『集史』がともに ないし と綴る。クチュルクとはテュルク語で küč+lüg 「力ある者」の意味である。 == 生涯 == 父タヤン・カン(タイ・ブカ)が1204年にモンゴル部のチンギス・カンに敗れて戦死し、ナイマン部が壊滅し、クチュルクはアルタイ山脈方面にいた叔父ブイルクの下に逃れた。だが、1208年に再び敗れて、アルタイ山脈の西の中央アジアを支配する西遼に亡命した。 西遼ではモンゴル帝国の拡大を警戒する末主耶律直魯古(チルク)によって歓迎され、その女婿とされるほどの優遇を受けた。しかし、クチュルクはナイマンの残部を集めて勢力を蓄えると、西遼の簒奪を企て、天禧34年(1211年)に岳父の直魯古を幽閉し、自ら西遼の帝位に就いた。 即位後、西遼以前に中央アジアを支配していたカラ・ハン朝の残部が西遼の宗主権下で存続していたタリム盆地南部のホータン、カシュガルを次々に征服し、中央アジアに勢力を広げた。また、契丹人貴族の支持を得るために、妻の影響も受けてナイマンの旧来の信仰であるネストリウス派キリスト教から仏教に改宗した。しかし熱心な仏教徒となってイスラム教を弾圧したため、領内の住民の大多数を占めるムスリムのクチュルクに対する反感が強まった。 このため、1218年にモンゴル帝国の将軍ジェベが率いる部隊が到来すると、領内のムスリムは雪崩を打ってモンゴルに従い、クチュルクの勢力は壊滅した。クチュルクは南のパミール高原に向かって敗走したが、バダフシャーンでモンゴルの追討部隊に捕捉され、殺害された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クチュルク」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kuchlug 」があります。 スポンサード リンク
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