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グティ : ウィキペディア日本語版
グティ

グティ(Guti)ことホセ・マリーア・グティエレス・エルナンデス(José María Gutiérrez Hernández、1976年10月31日 - )はスペイントレホン・デ・アルドス出身の元スペイン代表サッカー選手
本来のポジションはMFだが、2000-01、01-02シーズンはチーム事情によりFWとしてプレーした。グラウンダーの高速スルーパスを多用したゲームメークが得意で創造性に溢れるパスは見ている人間を楽しませた。またフリーキックやシュートも正確である。カンテラ時代はトップ下で毎シーズン30得点前後を記録していた〔「つねに自分らしく」『WORLD SOCCER DIGEST No.303』 第15巻第22号、日本スポーツ企画出版社、2009年、74-77頁〕。
== 経歴 ==

=== レアル・マドリード ===
1984年にレアル・マドリードの下部組織(カンテラ)に入団した。金髪をなびかせた風貌や優雅なプレースタイルがベルント・シュスターに似ていたことから、小さい頃は「リトル・シュスター」というあだ名があった。シュスターは2007年夏にレアル・マドリードの監督に就任し、1シーズンではあるが選手と監督の関係になった。レアル・マドリードに入団したころはストライカーだったが、後にミッドフィールダーに転向し、1995年、ホルヘ・バルダーノ監督が率いるトップチームに初めて招集され、12月2日のセビージャFC戦でトップチームデビューした〔グティ、“天使と悪魔” Goal.com、2010年7月27日〕。1995-96シーズンは9試合に出場して1得点を決めた。1996-97シーズンは17試合に出場し、リーガ・エスパニョーラのタイトルを獲得した。1997-98シーズンにはスーペルコパ・デ・エスパーニャUEFAチャンピオンズリーグのトロフィーを掲げた。
1998-99シーズンにはトヨタカップで優勝し、シーズン途中にはMFホシコやMFフアン・カルロス・バレロンらとともにUEFA U-21欧州選手権で優勝した。この大会では背番号14を着けており、これ以来ラッキーナンバーとしてクラブでもこの背番号をつけた。1999年5月5日、クロアチア代表戦でスペイン代表デビューした。同年6月22日に結婚し、子供を2人授かるも、2009年に離婚している。
1999-2000シーズンはクラレンス・セードルフにポジションを奪われ、倒れた相手を蹴って退場になったこともあったが、ビセンテ・デル・ボスケ監督に信頼されて中盤の軸になった。試合中に感情をあらわにする欠点があり、2010年までにリーグ戦だけで8度の退場処分を受けている。同シーズンには再びUEFAチャンピオンズリーグのタイトルを獲得し、自身はリーグ戦28試合に出場して6得点を決めた。2000-01シーズンはFWフェルナンド・モリエンテスが怪我で長期離脱したため、シーズンの大半の試合でフォワードとして出場し、キャリアハイの得点数(14得点)を記録した。27度目のリーグタイトルを獲得し、スーペルコパ・デ・エスパーニャでも優勝した。人口約5万人の小都市に本拠地を置くビジャレアルCFとのアウェー戦では彼らのファンに対して「田舎者」と言い放って中指を突きたて、スペイン国内すべての新聞で報じられる問題を引き起こした。
2002年にFWロナウドが加入すると、FWでプレーしていたグティはポジションを奪われた。しかし、ボランチでプレーしていたイバン・エルゲラがCBへコンバートされ、守備的MFクロード・マケレレのパートナーが定まっていなかったことで、デル・ボスケ監督はグティをセンターハーフに抜擢した。このコンバートが大成功し、グティは新たなポジションを獲得。再び中盤でプレーするようになり、2度目のUEFAチャンピオンズリーグUEFAスーパーカップインターコンチネンタルカップのタイトルを獲得した。2004-05シーズンは過去7シーズンで初めてリーグ戦ノーゴールに終わり、このシーズンの彼のゴールは、2005年2月にスペイン代表のサンマリノ戦で挙げた1点だけだった。2005-06シーズンは公式戦を通じて43試合に出場し、リーグ戦で4ゴール、欧州カップ戦で2ゴールを挙げた。
2006年夏、ACミランからMFカカを引き抜くことを公約に掲げたラモン・カルデロンがクラブの新会長に当選したため、カカとポジションが重なるグティの将来に暗雲が漂った。彼はローカルライバルのアトレティコ・マドリードに移籍することも検討したが、結局移籍することはなく、カカもACミランに残留した。2006 FIFAワールドカップをもってジネディーヌ・ジダンが現役引退したため、2006-07シーズンは司令塔のポジションに定着し、チームで唯一違いが生み出せる選手と評価された。多くのゴールをアシストし、30回目のリーグ優勝に貢献した。後に、過去の優勝の中でこのシーズンのリーグ優勝が一番嬉しかったとインタビューで語っている。
2008年2月10日のレアル・バリャドリード戦では2得点3アシストの大活躍で7-0の大勝に貢献し、マン・オブ・ザ・マッチに輝いた〔Real Madrid 7-0 Valladolid R・マドリード公式ウェブサイト、2008年2月10日〕。2007-08シーズンはリーグ優勝を果たし、自身はアシストランキングでトップに立った。9月14日のCDヌマンシア戦ではクラブの通算5000得点目を決めた〔グティ:5000本目のゴール R・マドリード公式ウェブサイト、2008年9月14日〕。2009年夏、監督がマヌエル・ペジェグリーニに交代し、ACミランからカカが加入したため、出場機会は減少した。格下相手に0-4の敗戦を喫したコパ・デル・レイADアルコルコン戦では、ハーフタイムに屈辱的な途中交代をさせられ、試合後には首脳陣を批判するコメントを残したため〔グティ:「ペジェグリーニは残るべきだった」 Goal.com、2010年5月28日〕、それからしばらくの間招集メンバーから外された。ADアルコルコン戦後には8年前同様に相手ファンに中指を突き立てて議論を醸した。カカが負傷によりチームを離脱すると、再びレギュラーとして出場した。
レアル・マドリードとの契約を1年残していたが、2010年7月25日、下部組織時代も含めると25年間在籍したレアル・マドリードからの退団を発表した〔レアルMFグティが退団、トルコ行き検討 ロイター、2010年7月26日〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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