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グラシーニャ・レポラーセ : ミニ英和和英辞書
グラシーニャ・レポラーセ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

グラシーニャ・レポラーセ : ウィキペディア日本語版
グラシーニャ・レポラーセ[ちょうおん]

グラシーニャ・レポラーセ(Gracinha Leporace, 本名:ティニー・マリア・ダ・グラサ・レポラーセ、1950年1月30日〔1月20日説もあり〕- )はブラジル出身のボサノヴァミュージシャン。
== 経歴 ==
3人兄妹の末っ子としてリオデジャネイロに生まれる。学生時代より音楽活動を始め、グルーポ・マニフェストに参加。17歳の時、第2回国際歌謡祭に兄フェルナンド作の「Canção de Esperare Você」で出場し注目を浴びる。この曲は後にエレンコ・レーベルよりシングルとして発売された。
また、上記歌謡祭を中心とした企画盤『』では兄フェルナンド作のほかにソロ名義で「Canto de Despedida」「Oferenda」、マリオ・テリスとのデュエット「Desencontro」、グルーポ・マニフェスト名義で「Margarida」を発表。
上記グルーポ・マニフェスト在籍時には『Manifest Musical』『Grupo Manifesto No.2』(ともにELENCO発売)の2枚を発表。同グループは2作発表の後、解散している。
1968年、18歳の時には、ソロ名義で『Gracinha Leporace』(PHILIPS発売)を発表。その後、エルメート・パスコアールアイルト・モレイラなどで知られるクアルテート・ノヴォに参加。サンパウロに一時帰国していたセルジオ・メンデスにスカウトされ、ボサリオの一員になる。
この時、渡米しセルジオ・メンデスと結婚する。
ボサリオでは『Bossa Rio』(A&M発売)・『Alegria!』(BULE THUMB発売)の2作に参加。1970年にはゲストにジョアン・ドナートを迎えて初来日し、ブラジル'66の前座を担当。この様子はライブ盤『Live At The Expo '70』(キングレコード発売)に収められている。
ボサリオと平行してブラジル'66にも参加。1970年にブラジル'66のメンバーチェンジがあった時に、ラニー・ホールと入れ替わりでクラウヂオ・スロンとともに正式参加。
以後、セルジオ・メンデスのほとんどの作品に参加。ボサリオ解散後には、セルジオ・メンデス&ブラジル'77のボーカリストとして参加。セルジオ・メンデスがプロデュースする作品にも参加するなど、多岐に渡る活動をする。
1977年製作のドキュメンタリー映画『ペレ』のサウンドトラックではペレ本人とデュエットしているほか、ジャズ界のリー・リトナーサラ・ヴォーンとも共演している。
その後は特に目立った活動はないが、なおも現役であり、セルジオ・メンデスと公私共に行動をしている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「グラシーニャ・レポラーセ」の詳細全文を読む




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