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グラン・ラパン : ミニ英和和英辞書
グラン・ラパン[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

グラン・ラパン ( リダイレクト:オットー・ワンツ ) : ウィキペディア日本語版
オットー・ワンツ[らん]

オットー・ワンツOtto Wanz1943年6月13日 - )は、オーストリアグラーツ出身の元プロレスラープロモーター
ヨーロッパを代表するプロレス団体CWACatch Wrestling Association)の総帥として知られた。AWA世界ヘビー級王座奪取(第28代王者)やIWGPリーグ戦への連続出場など、アメリカ日本でも実績を残している。
== 来歴 ==
アマチュア・ボクシングで活動後、ドイツ(当時西ドイツ)のプロモーターだったグスタル・カイザーにスカウトされて1969年にプロレスラーに転身〔『THE WRESTLER BEST 1000』P119(1996年、日本スポーツ出版社)〕。丸々とした体型のコミカルかつパワフルなベビーフェイスとして、地元のオーストリアやドイツを主戦場に、主に子供ファンからの人気を集めた〔。1973年1月にはグラン・ラパン(''Grand Lapin'')のリングネーム国際プロレスに初来日している。
1973年8月2日、南アフリカケープタウンにてジャン・ウィルキンスを破り、初代のCWA世界ヘビー級王者となる。以降、ドイツを本拠地とするCWAのエース兼プロモーターとして活躍、1976年にはアントン・ヘーシンクと防衛戦を行い、1978年11月24日にはローラン・ボックが主催した欧州世界選手権シリーズにおいてアントニオ猪木の挑戦も受けた(新日本プロレスには、1976年1月にブルドッグ・オットー名義で初参戦している)〔。この間、1977年9月1日にヨハネスブルグドン・レオ・ジョナサンに敗れベルトを失うが、翌1978年7月15日に地元のグラーツにて奪還に成功した〔。
1982年よりアメリカAWAと提携し、ボビー・ダンカンバロン・フォン・ラシクを招聘してCWA王座の挑戦者に迎える一方、自身もアメリカに遠征。同年8月29日、ミネソタ州セントポールニック・ボックウィンクルからAWA世界ヘビー級王座を奪取し、世界的な名声を獲得した。
1983年5月には新日本のIWGP決勝リーグ戦に「欧州代表」として参戦。同年11月の第4回MSGタッグ・リーグ戦や翌1984年5月のIWGP王座決定リーグ戦にも出場した。戦績は芳しくなかったものの、新日本との提携強化やアメリカ人レスラーとの人脈形成において、CWA代表としての外交手腕を発揮。アンドレ・ザ・ジャイアントサージェント・スローターディック・マードックビッグ・ジョン・スタッドブラックジャック・マリガンキングコング・バンディらのブッキングを実現させている〔1988年7月9日のグラーツでのビッグショーにはブルーザー・ブロディの出場が予定され、ワンツとのCWA世界王座戦が組まれていたが、開催3日前に急遽キャンセルされている(『Gスピリッツ Vol.13』P105 / 2009年、辰巳出版 / ISBN 4777807150)。約1週間後、ブロディはプエルトリコで急逝。〕。
CWA王者としても彼らを相手に防衛を重ね〔、1987年からはブル・パワーとの抗争をスタート。欧州とアメリカを股にかけて、CWA世界王座の争奪戦を繰り広げた〔。1990年6月30日、ホームタウンのグラーツでブル・パワーから王座を奪回すると、その場でタイトルを返上して引退を表明〔。同年12月22日のブレーメン・トーナメント最終日におけるテリー・ファンク戦を最後に現役を引退した〔。
以降、1990年代フランス系カナダ人ケベック人)のランボーにエースの座を譲り、自身はCWAのプロモート業に専念。当時の欧州マットはWWFの世界戦略の影響で壊滅状態にあったが、CWAはワンツが過去の渉外活動で構築してきたネットワークを活かし、ロード・ウォリアー・ホークルドヴィッグ・ボルガパパ・シャンゴアルティメット・ウォリアーなどフリーランスの大物選手を招聘して独自の活動を続けた。新日本プロレスとの友好関係も維持し、蝶野正洋船木優治山本広吉小島聡ら当時の歴代の若手選手が海外武者修行としてCWAに遠征。石澤常光は、ワンツのアイデアによりCWAマットで「ケンドー・カシン」に変身した。1990年代半ばからは新日本を媒介にWCWとも提携。アレックス・ライトらがCWA経由でWCWに登場した。
2000年にCWAが活動を停止してからはプロレス界から勇退。近年は俳優として映画やテレビなどのショービジネス界で活動している。本国オーストリアでは根強い人気を誇り、CMなど広告媒体への出演も数多い〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「オットー・ワンツ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Otto Wanz 」があります。




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