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グラーフ=ライネ(Graaff-Reinet)は、南アフリカ共和国の都市。東ケープ州に属する。人口80,776人。オランダ統治時代からの古い町であり、オランダ東インド会社のケープ植民地における4番目の拠点だった。 == 歴史 == グラーフ=ライネは1786年、カルー地方に進出したボーア人たちの拠点としてオランダ東インド会社によって建設された。東インド会社の拠点としては、ケープタウン、ステレンボッシュ、スウェレンダムに次ぐ4番目の開拓拠点であり〔レナード・トンプソン著、宮本 正興・峯 陽一・吉国 恒雄訳、1995、『南アフリカの歴史』、明石書店 ISBN 4750306991、p.110〕、拠点中最も東、ボーア人の進出限界近くにあった。グラーフ・ライネという地名は、建設当時のケープ総督であったコルネリス・ヤコブ・ファン・デ・グラーフと、彼の妻であるライネの名にちなんでつけられた。 グラーフ・ライネにはラントドロスト(地区行政長)が置かれ、この広大な地方に薄く広く広がったトレックボーアたちを統括した。1793年には、グラーフ・ライネ地区(市ではない)の市民は3100人であった〔レナード・トンプソン著、宮本 正興・峯 陽一・吉国 恒雄訳、1995、『南アフリカの歴史』、明石書店 ISBN 4750306991、p.111〕。グラーフ・ライネ地区は東のコーサ人との国境地区であり、1779年以来いさかいが絶えなかったが、東インド会社は充分な支援をしなかったため、1795年にトレックボーアの有力な市民がラントドロストを追放し、共和国を宣言した。ケープタウンの当局はこれを鎮圧しようとしたもののケープ植民地自体がイギリスに占領されたため実現せず、グラーフ・ライネ共和国は1799年まで存続した〔「アフリカ大陸歴史地図」第1版、2002年12月3日(東洋書林)p97〕。1799年に共和国は崩壊し、指導者だったマルティヌス・プリンスローと19人の指導者たちはキャッスル・オブ・グッドホープへと収監された。 1801年には反乱が再燃したが、このときはF・ダンダス総督の融和策により程なくして収束した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「グラーフ=ライネ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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