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グリエルモ9世・デル・モンフェッラート(Guglielmo IX del Monferrato, 1486年8月10日 - 1518年10月4日)は、イタリアのモンフェッラート侯爵(在位1494年 - 1518年)。 モンフェッラート侯爵ボニファーチョ3世とその妻でセルビアのデスポト(君侯)ステファン・ブランコヴィチの娘であるマリアの間に生まれ、1494年に幼くして侯爵位を継いだ。父に倣って親フランスの立場をとり、アランソン公ルネの娘アンヌを妻に迎えた。2人の結婚式は1508年8月31日にブロワのサン=ソーヴール教会で執り行われている。 1513年のノヴァーラの戦いでは、敗走・退却するフランス軍をスイス=ミラノ連合軍から守る役目を果たした。スイス人傭兵のおかげでミラノ公に復帰したマッシミリアーノ・スフォルツァは、報復措置を行わない代わり3万スクードの賠償金を支払うようグリエルモ9世に要求した。マッシミリアーノは和平協定を遵守せず、モンフェッラート侯爵領に軍隊を差し向けて多くの都市を掠奪させた。 分家筋のインチーザ侯爵家(Marchesato di Incisa)の当主オッドーネ(Oddone d'Incisa)がモンフェッラート侯爵位を狙っていると知ると、グリエルモはインチーザ・スカパッチーノの町を占領して、オッドーネとその息子のバドーネを処刑し、インチーザ侯爵領を併合しようとした。しかしこの行動はインチーザ侯爵の宗主である神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の厳しい非難を受け、グリエルモはインチーザの併合を諦めざるを得なかった。 == 子女 == アンヌ・ダランソンとの間に3人の子女をもうけた。 *マリーア(1509年 - 1530年) - 1517年、マントヴァ公フェデリーコ2世と結婚 *マルゲリータ(1510年 - 1566年) - 1531年、マントヴァ公フェデリーコ2世(姉の元夫)と結婚 *ボニファーチョ4世(1512年 - 1530年) - モンフェッラート侯 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「グリエルモ9世 (モンフェッラート侯)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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