翻訳と辞書
Words near each other
・ グリビツェ
・ グリフ
・ グリフィア (小惑星)
・ グリフィス
・ グリフィス (ニューサウスウェールズ州)
・ グリフィス500
・ グリフィスの実験
・ グリフィススタジアム
・ グリフィス・ジョーンズ
・ グリフィス・スタジアム
グリフィス・ラザフォード
・ グリフィス大学
・ グリフィス天文台
・ グリフィス理論
・ グリフィン
・ グリフィン (ミサイル)
・ グリフィン (曖昧さ回避)
・ グリフィン (銀河鉄道物語)
・ グリフィン (駆逐艦)
・ グリフィンドール


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

グリフィス・ラザフォード : ミニ英和和英辞書
グリフィス・ラザフォード[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

グリフィス・ラザフォード : ウィキペディア日本語版
グリフィス・ラザフォード[ちょうおん]

グリフィス・ラザフォード(、1721年頃 - 1805年8月10日)は、18世紀アメリカ軍人であり、ノースカロライナ州の政治指導者である。南西部領土テネシー州の初期の歴史で重要人物だった。
フレンチ・インディアン戦争のときに、イギリス植民地民兵隊の大尉となった。1775年にアメリカ独立戦争が始まるまで民兵隊に務め続けており、独立戦争ではノースカロライナ民兵隊に入隊して大佐になった。1776年5月にはソールズベリー地区民兵隊の准将に指名された。西部フロンティアでチェロキーインディアンに対するチカマウガ戦争の初期段階に参戦した。1780年6月、ラムサーズミルの戦いでロイヤリスト部隊を破った時は一部貢献した。1780年8月16日のキャムデンの戦いに参戦し、イギリス軍の捕虜になった。1781年の捕虜交換で釈放され、その後はチェロキー族のチカマウガ隊への攻撃など幾つかの作戦に参加した。

ラザフォードはアイルランドの生まれであり、18歳の時に両親とペンシルベニア植民地フィラデルフィアに移民してきた。1753年、ノースカロライナ植民地ローワン郡に移り、そこでエリザベス・グラハムと結婚した。町の活動的な一員となり、多くの公職を務めた。ノースカロライナ州議会の両院で議員となり、また州知事にも立候補したが落選した。反連邦党の運動では推進者であり、1794年には南西部領土立法議会議長に指名された。テネシー州サムナー郡に引退し、そこで1805年8月10日に死んだ。84歳だった。
== 初期の経歴 ==
青年時代についてはあまり知られていない。1721年あるいは1731年のどちらかにアイルランドで生まれた〔MacDonald p. 11〕。父のジョン・ラザフォードはスコットランド系アイルランド人であり、母のエリザベス(旧姓グリフィン)はウェールズ出身だった〔Ashe p. 381〕。18歳の時にフィラデルフィアに移民してからの記録が残っている〔Wakelyn p. 176〕。両親はアメリカへの航行中に死亡し、暫くは親戚の農園で働いていた〔。その時に測量法を習った〔MacDonald p. 13〕。1753年頃、ノースカロライナ植民地ローワン郡に移り、ソールズベリーから約7マイル (11 km) にある土地を購入した。これは1750年代にラザフォードが購入した幾つかの土地では最初のものだった〔MacDonald p. 21〕。翌年、隣人の姉妹エリザベス・グラハムと結婚し、10人の子供をもうけた〔〔MacDonald p. 22〕。息子の1人ジェイムズは後のアメリカ独立戦争で少佐となり、ユートースプリングスの戦い(1781年9月)で戦死した〔Ashe p. 382〕。ラザフォードはダニエル・ブーンの友人でもあり、ブーンとは何度か狩猟や測量の遠征に行った〔MacDonald p. 20〕。住んでいた町では次第に活動的になっていった。1766年にはノースカロライナ議会議員となり、1767年から1769年には保安官治安判事、さらに税徴収官を務めた〔Clark p. 575〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「グリフィス・ラザフォード」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.