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『グリム童話』(グリムどうわ、)は、ヤーコプとヴィルヘルムのグリム兄弟が編纂したドイツのメルヘン集である。正式なタイトルは『子供たちと家庭の童話』()で、1812年に初版第1巻が、1815年に第2巻が刊行され、著者の生前から数度改訂されつつ版を重ねた。160以上の言語に翻訳されており、聖書に並ぶといわれるほど広く読まれたとされ〔虎頭 (2005)、4頁。〕、多くの芸術家にインスピレーションを与えている。また民話収集のモデルとして、他国の民話研究にも大きな影響を与えた。 == 成立背景 == 『グリム童話』が成立した背景には、フランス革命とそれに続くナポレオン・ボナパルトによるドイツ占領によって、ドイツにナショナリズム高揚の動きが広まっていたことがある。このような状況のもとで、それまで芸術家主義的に展開していたドイツ・ロマン主義運動は一転して土着の民衆文化に目を向けるようになり、その一環として民謡やメルヒェンの発掘収集を進めるようになった〔鈴木 (1991)、42頁。〕〔柴田翔編 『はじめて学ぶドイツ文学史』 ミネルヴァ書房、2003年、109頁。〕。こうした収集の先駆的業績としては、ロマン主義以前、シュトルム・ウント・ドランク運動の提唱者であったヘルダーによる『民謡集』(1778年–79年)があり、グリム兄弟以前には他にもムゼーウスの『ドイツ人の民間童話』(1782年)、ナウベルトの『ドイツ人の新しい民間童話』(1788年)、『グリム童話』の数ヶ月前に刊行されたビュッシングの『民間伝説、メルヘン、聖者伝』(1812年)など数種類の民話集が刊行されている〔鈴木 (1991)、42–43頁。〕。1808年にはグリム兄弟と同姓の(まったく血縁関係のない)A.L.グリムによる『子どもの童話』も出ているが、『グリム童話』が出た当時はこちらのグリムによる本もよく売れていたために、兄弟の生前はしばしば両者が混同された〔鈴木 (1991)、43頁。〕。 こうした流れの中で1806年、ロマン派の詩人ブレンターノとアルニムによる民謡集『少年の魔法の角笛』が刊行された。この民謡集には恩師であるサヴィニーの仲介によってヤーコプ・グリムも収集の協力をしており、その後この民謡集の続編となるメルヒェン集が計画されると、ブレンターノ達はグリム兄弟にもメルヒェン収集の協力を依頼した。このとき兄弟はブレンターノから、画家のフィリップ・オットー・ルンゲが方言で書き留めた二つのメルヒェン「猟師とおかみ」と「ねずの木の話」を渡されており、兄弟のメルヒェン収集・編纂はこの二つのメルヒェンと、『少年の魔法の角笛』におけるブレンターノの再話法とによって方向付けられることになった〔鈴木 (1991)、47頁。〕〔レレケ (1990)、54頁。〕。兄弟は口伝えと文献のふたつの方向からメルヒェン収集を進め、初期の成果である49篇をブレンターノに送った〔鈴木 (1991)、48頁。〕。しかしブレンターノから音沙汰がなくなったため、ブレンターノ達とは別に自分たちの童話集をつくることに決め、あらかじめ取っておいた写しをもとに『グリム童話』の編纂を進めていった〔レレケ (1990)、128–129頁。〕。その後ブレンターノのほうの企画は立ち消えとなり、ブレンターノはグリムから送られた原稿も返却しないまま紛失してしまったが、この初期の原稿は19世紀末になって、アルザスのエーレンベルク修道院で発見されており(エーレンベルク稿)、今日グリムによって加筆修正された刊本と原型との比較研究のための基本資料となっている〔鈴木 (1991)、48–49頁。〕〔「エーレンベルク稿」の日本語訳は、フローチャー『初版以前 グリム・メルヘン集』 美和子訳、東洋書林、2001年 ISBN 978-4887215641 に所収。ドイツ語原典は"Kinder- und Hausmärchen: Die handschriftliche Urfassung von 1810", Brüder Grimm, Reclam, Philipp, jun. GmbH, Verlag (2007) ISBN 978-3150185209 など。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「グリム童話」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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