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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
グリーン・リヴァー (Green River) は、アメリカのバンド。1984年にワシントン州シアトルにて結成され1988年まで活動していたバンドで後にグランジとして1990年代前半のアメリカで大流行するジャンルの先駆者として知られる。メンバーの内ストーン・ゴッサード、ジェフ・アメンはパール・ジャム、マーク・アームとスティーヴ・ターナーはマッドハニーというグランジシーンの中で重要な役割を果たすバンドを構成することとなる。 2008年に再結成し、いくつかのライブを行なっている。 == 歴史 == グリーン・リヴァーという名前の由来は同名の渾名で知られるアメリカの連続殺人犯ゲイリー・リッジウェイで、1984年にヴォーカル兼ギターのマーク・アーム、ギターのスティーヴ・ターナー、ドラムのアレックス・ヴィンセント、ベースのジェフ・アーメンらによって結成される。因みにグリーン・リヴァーという名前は結成された後に名付けられた。 バンドは結成後はしばらくシアトル周辺でライブを中心に活動していたが1984年12月に最初の作品となるEP、『カム・オン・ダウン - ''Come On Down'' - 』の制作を開始。1985年の初めにはレコーディングを完了。同年5月に発売する。しかしこの頃にギターのターナーがバンドのヘヴィメタル的な音楽性、趣味を嫌い脱退。代わりにブルース・フェアウェザーが加入。 1986年の3月には後にシアトル・サウンドなどと呼ばれ後にグランジシーンで大きな影響力を持つようになるサウンドガーデンやメルヴィンズ等と共に参加したコンピレーションアルバム、ディープ・シックスがC/Z Recordsよりリリース。この頃から太平洋岸北西部を中心にしてライブ活動を再開。着実に人気を得ていった。 1986年6月に二枚目となるEP、『ドライ・アズ・ア・ボーン - ''Dry As A Bone'' - 』の制作を開始。プロデューサーにジャック・エンディーノを迎え、レーベルもホームステッドからブルース・パビットの新しいレーベルサブ・ポップに移籍。新体制の下制作されることとなったこのEPだが、パビットに年内にこのEPを発売する余裕がなく、発売は延期。その間にシングル"トゥゲザー・ウィール・ネヴァー"を地元のレーベルから発売した。 最終的に録音から丁度一年経た1987年7月にサブ・ポップから''ドライ・アズ・ア・ボーン''を発売した。このEPはサブ・ポップに「世代の文化的な差を駆逐し、グランジというジャンルを越えた」と宣伝され、オールミュージックのスティーヴ・ヒューイは「グリーン・リヴァーの最高且つ個性的なリリースで、彼らの淫らさを完成させ、1970年代のハードロックとポスト・ハードコア・パンクの騒々しい結晶」と評された。 その後''ドライ・アズ・ア・ボーン''リリースと同時といってもいい程の速さでより多くの曲を含むアルバムである『リーハブ・ドール - ''Rehab Doll'' - 』の制作にとりかかった。 この頃になるとバンドはシアトルのグランジシーンにおいて中心的なバンドとなっており、順調に活動していると思われたが、アメンとゴッサード、そしてマークら他のメンバーに音楽性の違いが生まれ内部抗争が発生していた。アメンとゴッサードは積極的にメジャーレーベルへ移籍したがっていたが、マークはインディーズへ留まることを望んでおり、アメンとゴッサードの二人を出世をあまりにも考え過ぎ商業主義に走っていると見ていた。 1987年10月になると内部抗争は発展し、ロサンゼルスでのショウでアメンが他のメンバーへ知らせることなくメジャーレーベルの関係者達を大量に客として招いたらしく、代わりにバンドの友人達が犠牲にされたにも関わらず関係者は二人しか姿を現さなかった。 同月31日、アメン、ゴッサード、フェアウェザーらは「リーハブ・ドール」をこれから3ヶ月の間に発売することに合意したが、バンドを去りたいと言明し、グリーン・リヴァーはここに解散した。 解散後の1988年6月「リーハブ・ドール」が発売された。オールミュージックのネッド・ラゲットはこのアルバムを「グランジファン層とメタル層の間のファン層を掴んだアルバム」と評した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「グリーン・リヴァー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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