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グリーン諸島の戦い(グリーンしょとうのたたかい)とは、太平洋戦争での島嶼をめぐる戦闘の一つであり、1944年(昭和19年)1月から2月にかけてブカ島の北西方の海域に位置するグリーン諸島でニュージーランド軍およびアメリカ軍と日本軍守備隊が戦い、日本軍守備隊の玉砕によって戦闘が終わった。一連のソロモン諸島の戦いにおいて事実上最後の戦いに位置付けられ、グリーン諸島を確保した連合軍側は航空基地を前進させ、ラバウルとカビエンに対する包囲網をさらに狭めることとなった。 ==背景== 1943年(昭和18年)11月からのブーゲンビル島の戦いにおいてタロキナ地区を確保し、飛行場を建設したアメリカ軍はソロモン方面航空部隊を進出させ、ラバウルをその傘の下に置いた〔#ニミッツ、ポッター p.195〕。その数、頻度はすさまじく、一日一回以上の出撃を行い、一週間あたりの平均延べ出撃機数は1,000機を超えるにいたった〔。しかし、結論から言えば、戦闘機をラバウルを含めたビスマルク諸島全域を覆う傘に入れるには、少しばかり距離があった〔#ニミッツ、ポッター p.196〕。よって、戦闘機がビスマルク諸島で十分な活動を行えるような拠点を確保する必要が出てきた。その地点として選ばれたのが、ラバウルの東方およびブーゲンビル島とブカ島の北西方の海域に位置するグリーン諸島であった。 グリーン諸島攻略計画の初出ははっきりしないが、1944年1月3日に開かれたサンフランシスコでの合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長アーネスト・キング海軍大将と太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ海軍大将、および第3艦隊(南太平洋軍)司令長官ウィリアム・ハルゼー海軍大将の会談において、ハルゼーがグリーン諸島の確保を提案している〔#ニミッツ、ポッター p.422〕。ハルゼーはさらにエミラウ島の確保を進言し、アドミラルティ諸島をうかがうダグラス・マッカーサー陸軍大将の南西太平洋軍と連携してラバウルとカビエンを締め上げ、連続爆撃で無力化することができるとにらんでいた〔。ハルゼーの提案はワシントンD.C.と真珠湾での陸海軍の会合に回されたが、マッカーサーの代理である南西太平洋軍参謀長リチャード・サザランド陸軍少将はグリーン諸島の確保には賛成したものの、エミラウ島の確保には反対した〔#ニミッツ、ポッター p.423〕。会合自体はその後、マッカーサーの意を呈したサザランドが主要進攻路について何かと引っかきまわして、会合内容を知ったキングが激怒するという展開になるが〔#ニミッツ、ポッター pp.423-425〕、グリーン諸島攻略作戦そのものは2月15日に作戦を開始するということで承認された〔。 グリーン諸島に関する日本側の状況についても資料が十分とは言えないが、1944年1月の時点では日本海軍の見張り員12名と、日本陸軍守備隊約80名がいた〔#戦史96 p.479〕。在ラバウルの第八方面軍(今村均陸軍大将)では、連合軍がグリーン諸島を確保すれば飛行場を建設してラバウルとカビエンに脅威を与えてくるであろうことは予想していたものの、特に対策は打たなかった〔#Gillespie p.169〕。日本側では、グリーン諸島をラバウルとブカ島間の小型船の中継地として活用したのみであった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「グリーン諸島の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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