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グルジョンツ()はポーランド、クヤヴィ=ポモージェ県の都市。ドイツ語名はグラウデンツ()。ワルシャワから北西へ200km、グダニスクから南へ100kmの位置で、ヴィスワ川のほとりにある。 == 歴史 == 定住の痕跡は10世紀まで遡ることができる。「」という名前が1222年の文献に残っている。グルジョンツを含むは、1225/1226年、マゾフシェ公コンラトによって、ドイツ騎士団がプルーセンを攻撃する見返りに譲渡された。1230年には()が締結されたとされる。 1231年、ドイツ騎士団が城を建設。現在は城壁の跡が残っているだけである。1291年、都市法()が認められた。その後数年をかけて市壁が建設された。グルジョンツは14世紀まで穀物流通の拠点として繁栄し、最初の黄金期を迎える。 プロシア連合に参加したクルマーラントは、第二次トルンの和約によってポーランド王領プロシアに編入された。クルマーラントは地理的な優位性から、ポーランド王領プロシアの政治を主導していく。1522年、グルジョンツで、コペルニクスの貨幣制度に関する講演が行われた。16世紀には手工業と交易の一大拠点として栄えたグルジョンツだが、17世紀には北方戦争の戦火に見舞われることになる。1655年にスウェーデンが占領。1659年にポーランドが奪還したが、街は完全に破壊されてしまった。戦争や内部闘争は続いたが、街並みはバロック様式で再建された(グルジョンツ・バロック)。 1772年、第1次ポーランド分割で、グルジョンツを含む地域はフリードリヒ2世のプロイセン王国に支配下に入る。フリードリヒ2世はここに巨大な要塞を建設した。西プロイセン州の一部となり、の県都となった。19世紀、まず、トルンとマリーエンブルク(マルボルク)を結ぶ鉄道が建設される。さらに、ヴィスワ川に鉄道橋が架けられてコーニッツ()からプロイシッシュ・アイラウ(バグラティオノフスク)までの路線が完成すると、グルジョンツは製鉄、機械、自動車、繊維といった工業で急速に発展した。1880年から1905年の間に人口は17,321人から35,958人に倍増している。1900年には独立市となった。 1920年、第一次世界大戦(ヴェルサイユ条約)の結果、いわゆるポーランド回廊の一部としてポーランドに割譲され、ポモージェ県に編入された。人口約40,300人(1910年時点)のうち多数派はドイツ系住民であったとされるが、このとき住民投票などは行われなかった。グルジョンツは文化と教育の拠点となる。ポーランドで最も大きい軍事基地のひとつが置かれた。この基地は騎兵の訓練所として知られた。 ナチス・ドイツがポーランド侵攻を開始すると、1939年9月3日、ドイツ国防軍に占領され、その後、ダンツィヒ=西プロイセン帝国大管区に編入された。1945年2月9日、赤軍に包囲され、激しい戦闘のすえ、3月6日に降服。この戦闘で市街の約60%が破壊されたという。グルジョンツは再びポーランドの一部(回復領)となり、ドイツ系住民は脱出するか、そうでなくても追放された(ドイツ人追放)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「グルジョンツ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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