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グレナダ占領 (グレナダせんりょう、)は、アメリカ独立戦争中盤の1779年7月2日から4日に、フランスがイギリス領西インド諸島のグレナダに侵攻し、占領した戦いである。デスタン伯爵が指揮するフランス軍は7月2日にグレナダ島に上陸し、3日から4日にかけた夜に島の首都セントジョージズを見下ろすホスピタル・ヒルにあったイギリス軍要塞を攻撃した。そこで捕獲した大砲がジョージ砦に向けられたので、島の総督マカートニー卿が降伏のための交渉に応じた。 デスタン提督はマカートニーの提示した降伏条件を拒否し、既に書いていた厳しい条件の採用に固執した。マカートニーはこれを拒否し、無条件降伏を選んだ。その後、デスタンは部隊に町の略奪を許可し、マカートニーは戦争捕虜としてフランスに送られた。 7月5日、ジョン・バイロン提督の指揮するイギリス艦隊が接近しているという情報が入り、フランス軍は艦船に再度乗り込んだ。翌7月6日にグレナダの海戦が起こり、フランス艦隊は、イギリスの艦船数隻に大きな損傷を与えた。海戦の後、両艦隊はそれぞれの基地に戻った。グレナダ島は独立戦争の終戦までフランスの支配下に留まり、1783年のパリ条約の条件によってイギリスの支配に戻された。 == 背景 == 1778年初期にフランスが仏米同盟によってアメリカ独立戦争に参戦した。フランス海軍のデスタン提督は1778年12月初旬に西インド諸島に到着した。その艦隊は12艦の戦列艦に多くの小艦艇が組み合わされていた〔Mahan, pp. 429–431〕。これと同じ頃、イギリスのウィリアム・ホザム提督が指揮する艦隊もカリブ海に到着しており、サミュエル・バーリントン提督指揮下の西インド諸島艦隊を補強した〔Mahan, p. 429〕。イギリス艦隊は続いてフランスが保持していたセントルシアを占領した。このときはデスタンの艦隊が救援に駆けつけたが実らなかった。イギリスはデスタンが本拠地にしているマルティニーク島を監視するためにセントルシアを使った〔Mahan, pp. 429–432〕。 1779年1月、ジョン・バイロン提督指揮下の戦列艦10艦が到着し、イギリス艦隊はさらなる補強を受けた。バイロンがイギリス領リーワード諸島の指揮を引き継いだ〔Colomb, p. 388〕。1779年の前半にフランスもイギリスもさらに補強されており、フランス艦隊がイギリス艦隊を凌ぐようになった〔Colomb, pp. 388–389〕。これに加えて、セントキッツ島に集結していたイギリス商船の船団をヨーロッパまで護送するために、バイロンが6月6日にセントルシアを離れたので、デスタンは自由に行動できるようになった。デスタンとマルティニーク総督のド・ブイエ侯爵はこのチャンスを捉えて、近くにあるイギリス領の島々への一連の作戦を開始した〔Colomb, p. 389〕。 その最初の標的が、セントルシア島のすぐ南にあるセントビンセント島であり、これを6月18日に占領した。続いてイギリスの重要な拠点であるバルバドス諸島の占領を考えたが、この時点では東よりの貿易風が吹いていたために進むことができず、その代わりに矛先をグレナダに向けた〔Colomb, pp. 389–390〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「グレナダ占領 (1779年)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Capture of Grenada (1779) 」があります。 スポンサード リンク
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