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グレート・東郷 : ミニ英和和英辞書
グレート・東郷[ごう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [ひがし]
 【名詞】 1. east 

グレート・東郷 ( リダイレクト:グレート東郷 ) : ウィキペディア日本語版
グレート東郷[ぐれーととうごう]

グレート東郷Great Togo、本名:ジョージ・カズオ・オカムラGeorge Kazuo Okamura〉、日本名:岡村 一夫〈おかむら かずお〉、1911年10月11日 - 1973年12月17日)は、アメリカ合衆国プロレスラーオレゴン州フートリバー出身の日系アメリカ人
生年・出自については諸説あり、父は日本人、母は中国人のそれぞれアメリカ移民であったという説、両親とも日本人で熊本県あるいは沖縄県から移民したという説、朝鮮半島出身説〔『Gスピリッツ Vol.19』P90(2011年、辰巳出版、ISBN 9784777808922)〕などが語られていて、真相は不明である(この経緯は下記関連書参照)。
リングネームの変遷はブル伊藤ジョージ岡村グレート・トージョー(東條)→グレート東郷
== 来歴 ==
1933年サンフランシスコのプロモーターにスカウトされ〔『プロレスオールスターSUPERカタログ』P108〕、第二次世界大戦後のアメリカのプロレス界で頭角を現した。その後来日し、日本プロレス国際プロレスなどのリングにも上がった。特に1962年に行われた「噛みつき魔」フレッド・ブラッシーとの一戦は壮絶で、東郷の額から激しく滴り落ちる流血をテレビで見た老人数名がショック死して社会問題になったこともある。
アメリカのリングでは終戦直後にまだまだ残っていた反日感情を利用してヒールに徹した。終戦からまだ10年もたっていない1950年代当時のアメリカで「軍国主義の頭目」と見られていた東條英機の苗字にあやかったリングネーム「グレート・トージョー」を当初名乗ったが、「東條」の名字をそのまま使うのはあまりにも刺激が強すぎるという判断から(実際にアメリカの巡業先の会場にて観客から暴行を受けたことを日刊スポーツの記者に語っている)、著名な大日本帝国海軍の軍人である東郷平八郎にあやかったリングネーム「グレート東郷」に変更し、晩年までこのリングネームを用いた。
リングコスチュームは股引スタイルで、窮地に陥ったときの卑屈な懇願のあとの「股間への蹴り」や塩による「目潰し攻撃」などの反則技を売り物にした(卑屈に許しを乞うた後のいきなりの反則は、当時のアメリカ人の観客に「日本軍のだまし討ち」とされていた真珠湾攻撃を連想した)。
卑劣かつ姑息な反則技や薄ら笑い、東洋風のコスチューム、塩をまく「儀式」など東郷独自のレスリングスタイルはその後しばらくの間アメリカにおける日本人および日系アメリカ人ヒールレスラーの雛形となり、キンジ渋谷ミツ荒川トージョー・ヤマモトプロフェッサー・タナカミスター・フジなどに受け継がれていった。しかし全盛時代の東郷は試合のたびにファンに襲われ、ときには銃剣で田楽刺しにされそうになったこともあったという。また、日系アメリカ人協会から抗議されたこともあった。
日本のリングでは、頭突き攻撃や空手チョップなどの技を使い、根性溢れるベビーフェイスとして活躍した。ブッカーとしても手腕を振るい、グレート・アントニオなどの大物・怪物レスラーを来日させた。アントニオ来日の際は彼の首に鎖をつないで先導するなどマネージャー役も演じている。
日本プロレスアメリカにおける窓口として、さまざまなレスラーを斡旋するが、力道山死後の1963年12月20日に、芳の里淳三遠藤幸吉吉村道明豊登の4人から、ブッキング料を巡るトラブルでブッカーを解任される〔『日本プロレス事件史 Vol.12』、P72(2015年、ベースボール・マガジン社、ISBN 9784583623252)〕。その報復として、アメリカ遠征中だったジャイアント馬場に高額の契約金を保証してアメリカに定着するよう、フレッド・アトキンスを通して説得したが失敗に終わった〔『ジャイアント馬場 - 王道十六文』(2002年、日本図書センター、ISBN 4-8205-9566-0)〕。
1968年、日本での復活を策して国際プロレスにも協力し、ブッカーとして外国人レスラーを斡旋したほか、TBS放送開始初戦のルー・テーズグレート草津戦において、草津側のセコンドにもついている。しかし、日本プロレスから大木金太郎を引き抜こうとしたために〔、宿泊中のホテルニューオータニで、ユセフ・トルコ松岡巌鉄から暴行を受けるという事件が勃発(トルコ側は暴行を否定している)。また、ブッキング料を巡るトラブルから、招聘した外国人選手に試合出場をボイコットさせるなど〔、最終的には国際プロレスとも決別することとなった。
1969年1月には、ルー・テーズと組んで、日本での第三勢力として『トーゴー&テーズ・カンパニー』(ナショナル・レスリング・エンタープライズ = 仮称)なる新団体の設立を画策(シャチ横内がエース候補として予定されていた。実際に東郷がテーズを訪問したのは1回のみだった〔『日本プロレス事件史 Vol.2』、P8 - P10(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 9784583621876)〕)したが、この情報を察知した日本プロレスによる妨害工作に遭った他、NETテレビ(現:テレビ朝日)とフジテレビへの売り込みにも失敗し、同年8月にNWAへの加盟を申請したが、8対10で否決されたことで頓挫している〔〔『プロレス醜聞100連発!!』(1998年、日本スポーツ出版社、ISBN 978-4-930943-10-1)〕。
1973年12月17日、胃癌の手術の経過が思わしくなく、ロサンゼルスにて死去。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「グレート東郷」の詳細全文を読む




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