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アンドレイ・アンドレーエヴィチ・グロムイコ(, ラテン文字表記の例:, 1909年7月18日(ユリウス暦7月5日) - 1989年7月2日)は、ソビエト連邦の外交官、政治家。28年の長きにわたってソ連の外務大臣を務め、ミスター・ニエットの異名で知られた。ミハイル・ゴルバチョフ政権時代にエドゥアルド・シェワルナゼと外務大臣を交代し、ソ連閣僚会議第一副議長(第一副首相)、そして国家元首に相当するソビエト連邦最高会議幹部会議長を歴任した。 == 生涯 == ===外交官時代=== 1909年7月6日、ロシア帝国時代の白ロシア(現在のベラルーシ)ホメリ州の農家に生まれる〔Gromyko, Andrei. ''Memoirs'', p. 2. Doubleday, New York, 1990. ISBN 0385412886.〕。出身村は古グロムイコ村で、正教古儀式派のベロクリニツキー派の信徒といわれる〔『ロシアとソ連 歴史に消された者たち 古儀式派が変えた超大国の歴史』(269頁)〕〔 2013年5月30日閲覧〕。祖先は17世紀にニーコン総主教およびその後の改革から逃れ、1684年にポーランドのベトカ村を作り住み着いた古儀式派の流れであり、18世紀のエカチェリーナ2世期には2万5,000人の同郷者がシベリアに追放されたという〔『ロシアとソ連 歴史に消された者たち 古儀式派が変えた超大国の歴史』(269頁)〕。1931年にソ連共産党に入党。1932年にミンスク農業大学を卒業する。ソ連科学アカデミー経済研究所勤務を経て、1939年にソ連外務人民委員部(外務省)に入る。米州諸国局課長、アメリカ局次長、同局長、駐米大使館参事官を歴任する。第二次世界大戦中の1943年駐米大使に抜擢され、大戦中は1944年のダンバートン=オークス会議、1945年のヤルタ会談など主要な国際会議に出席し、とくにアメリカとソ連の関係強化に動いた。 File:James Byrnes with Gromyko and Vishinsky - NARA - 198851.jpg|ジェームズ・F・バーンズ米国務長官と(1945年)右は外務人民委員代理だったアンドレイ・ヴィシンスキー File:President Harry S. Truman visits Soviet Prime Minister Josef Stalin at Mr. Stalin's residence during the Potsdam... - NARA - 198983.jpg|ポツダム会談にて(中央ハリー・S・トルーマン米大統領とバーンズ国務長官との間の人物。一番右はヴャチェスラフ・モロトフソ連外相、一番左はスターリンソ連首相) File:Andrei Gromyko, John F Kennedy 1962.gif|ジョン・F・ケネディ大統領と会談するグロムイコらソ連外交団 1946年から1949年まで国際連合安全保障理事会のソ連代表を務め、この間に何度も拒否権を行使したことから、「ミスター・ニェット(ニェットは、ロシア語のノーにあたる)」の異名を奉られた。1951年のサンフランシスコ会議でもソ連代表として出席したが、講和条約の内容に反対し、署名をしなかった。その後、外務次官、駐英大使などを歴任する。駐英大使時代には、日ソ共同宣言に先立つロンドン交渉でソ連側の代表に立った。 1955年に外務次官を経て、ニキータ・フルシチョフ政権の1957年に外務大臣に就任した。以後、1985年にエドゥアルド・シェワルナゼと交代するまで、28年間にわたって冷戦時代のソ連外交を担った。ブレジネフ時代の1960年代後半から1970年代にかけてのデタント(緊張緩和)を実現するが、1979年のアフガニスタン侵攻によって新冷戦を招いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アンドレイ・グロムイコ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Andrei Gromyko 」があります。 スポンサード リンク
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