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ケビン・ロバート・ウリエット(Kevin Robert Ullyett, 1972年5月23日 - )は、ジンバブエ・ハラレ出身の男子プロテニス選手。ジンバブエの有名なテニス一家「ブラック家」の3人兄弟(バイロン・ブラック、ウェイン・ブラック、カーラ・ブラック)と並んで、当地を代表するテニス選手の1人として活動してきた。ATPツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで34勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス107位、ダブルス4位。身長177cm、体重77kg、右利き。 == 来歴 == ウリエットは両親が自宅の裏庭に建てたハードコートで、5歳からテニスを始めた。ケビンが7歳の時、一家は南アフリカのダーバンに引っ越した。1990年にプロ入り。ウリエットは1995年4月に名古屋のチャレンジャー大会でプレーしたことがあり、リーンダー・パエス(インド)とペアを組んだダブルスで優勝した。この大会のシングルスでは1回戦で鈴木貴男に勝ったが、準決勝で松岡修造に 6-7, 5-7 で敗れた。1996年に「ジャパン・オープン」の男子ダブルスにウェイン・ブラックとのペアで出場したが、準々決勝でオーストラリアのマーク・ウッドフォード&トッド・ウッドブリッジ組に敗れたこともある。1997年1月末に中国・上海大会で、マックス・ミルヌイ(ベラルーシ)と組んでATPツアー大会のダブルス初優勝を果たす。1998年12月、ウリエットは自宅を南アフリカから故国ジンバブエに移した。 彼は男子テニスツアーの下部組織の大会で長期間の下積み生活を送ったが、1999年に27歳で男子テニス国別対抗戦・デビスカップのジンバブエ代表選手に初選出された。2000年のシドニー五輪で初めてオリンピックのジンバブエ代表選手に選ばれ、シングルスではクロアチア代表のイワン・リュビチッチとの2回戦まで進んだが、ウェイン・ブラックとのダブルスでは1回戦で敗退する。ウリエットは2000年11月のスウェーデン・ストックホルム大会1回戦でアンドリュー・イリー(オーストラリア)に2-6, 5-7のスコアで敗退したのを最後に、男子ツアー大会のシングルスから撤退し、2001年以後はダブルスのみに活動を絞ってきた。 2001年のシーズンから、ケビン・ウリエットはダブルスの大部分をウェイン・ブラックとのペアで出場するようになった。ウリエットとブラックは2001年の全米オープンと2005年の全豪オープンで、4大大会の男子ダブルスに2勝を挙げた。2度目のオリンピック出場となった2004年のアテネ五輪では、2人は準々決勝でインド代表のマヘシュ・ブパシ&リーンダー・パエス組に敗れている。2004年末には男子テニス年間最終戦「テニス・マスターズ・カップ」のダブルス準優勝があり、ウリエットとブラックは決勝でアメリカの「ブライアン兄弟」(ボブとマイクは双子の兄弟ペア)に 6-4, 5-7, 4-6, 2-6 で敗れた。2005年の全豪オープン男子ダブルスではブライアン兄弟を 6-4, 6-4 で破り、2001年全米オープン以来の4大大会優勝を飾った。 混合ダブルスでのウリエットは、2002年全豪オープンでダニエラ・ハンチュコバ(スロバキア)と組んだ優勝がある。 ウェイン・ブラックの現役引退により、ウリエットは2006年・2007年の2年間ポール・ハンリー(オーストラリア)とパートナーを組んだ。2008年は大半の試合でヨナス・ビョークマン(スウェーデン)と組み、このコンビで初めてのウィンブルドン男子ダブルス決勝進出を決めた。ウリエットとビョークマンは決勝でダニエル・ネスター(カナダ)&ネナド・ジモニッチ(セルビア)組に 6-7, 7-6, 3-6, 3-6 で敗れ、ウリエットはウィンブルドン初優勝のチャンスを逃した。ビョークマンも2008年に現役を引退したため、ウリエットは2009年シーズンは1試合を除きブルーノ・ソアレス(ブラジル)と組んだ。 ウリエットは2010年ウィンブルドン選手権男子ダブルスで1回戦敗退した試合が、最後の出場になった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ケビン・ウリエット」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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