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ケリー伯爵()は、イギリスの伯爵位。アイルランド貴族。1723年に第21代ケリー男爵が叙位されたことに始まる。1818年に分家であるランズダウン侯爵家に継承され、以後はランズダウン侯爵のとなっている。 フィッツモーリス家について、は出自は不明確としているが、やジョン・デブレットは11世紀のノルマン人騎士オト・ドゥ・ウィンザーとウォルター・フィッツオト父子を祖としている。それによれば、ウォルターの孫ウィリアムが息子のレイモンドを連れてアイルランド島に渡り、レイモンドの息子モーリスがケリー州に領地を得たのだという。なお「モーリスの子」を意味する「フィッツモーリス」の家名は彼に由来する。 そのモーリスの息子トマス・フィッツモーリスが「ケリーおよびリックナウ男爵()」の爵位を得たのが貴族としてのフィッツモーリス家の始まりとされるものの、この男爵位創設の時期も詳らかでない。ただし1489年にヘンリー7世が15人のアイルランド貴族をグリニッジへ召喚した際に、男爵としてはとに次いで記されていることから、15世紀当時アイルランド貴族のうち3番目に古い男爵とされていたことがわかる。なお1615年に は「ケリー男爵はノルマン人のアイルランド侵攻(1172年)の頃まで遡れるが、キングセイル男爵(1223年頃創設)の方がより古い」という裁定を下した〔。 初代ケリー男爵の14世孫にあたる第21代ケリー男爵は1723年1月17日にジョージ1世によってアイルランド貴族「クランモーリス子爵()」および「ケリー伯爵」に叙された〔〔〔。彼はアイルランド庶民院議員やを務めた政治家で、経済学者ウィリアム・ペティの娘アンと結婚した〔〔〔。二人の間に生まれた子供のうち、長男のはケリー伯爵を継承、次男のはペティに改姓して母方の財産を相続しさらに(アイルランド貴族)に叙された。ジョンの息子である第2代シェルバーン伯爵ウィリアムはイギリスの首相となり、退任後にランズダウン侯爵(グレートブリテン貴族)を授けられている〔〔。 第2代ケリー伯爵ウィリアムの一人息子で3代伯爵となったには息子がなかったため、1818年に彼が死去するとケリー伯爵位は初代ランズダウン侯爵の息子で第3代ランズダウン侯爵となっていたヘンリーによって継承された〔〔〔。襲爵にあたって彼は姓を「ペティ=フィッツモーリス」へ改め、ランズダウン侯爵・ケリー伯爵・シェルバーン伯爵などの爵位はその子孫によって保持されている。侯爵は伯爵より上位の称号であるため以後当主が「ケリー伯爵」を称することはなくなったが、ランズダウン侯爵位の法定推定相続人は儀礼称号としてケリー伯爵とシェルバーン伯爵を交互に用いている。 == 一覧 == === ケリーおよびリックナウ男爵 (1223年頃) === * トマス・フィッツモーリス (初代ケリー男爵) (1260年頃没) * モーリス・フィッツトマス・フィッツモーリス (第2代ケリー男爵) (1303年没) * ニコラス・フィッツモーリス (第3代ケリー男爵) (1324年没) * モーリス・フィッツモーリス (第4代ケリー男爵) (1339年没) * ジョン・フィッツモーリス (第5代ケリー男爵) (1348年没) * モーリス・フィッツモーリス (第6代ケリー男爵) (1398年没) * パトリック・フィッツモーリス (第7代ケリー男爵) (1410年頃没) * トマス・フィッツモーリス (第8代ケリー男爵) (1469年没) * エドマンド・フィッツモーリス (第9代ケリー男爵) (1498年没) * エドマンド・フィッツモーリス (第10代ケリー男爵) (1543年没) * エドマンド・フィッツモーリス (第11代ケリー男爵) (1541年没) * 1537年、Viscount Kilmaule に叙爵 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ケリー伯爵 (アイルランド)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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