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ケルソネソス・タウリケの古代都市とその農業領域 : ミニ英和和英辞書
ケルソネソス・タウリケの古代都市とその農業領域[けるそねそす たうりけのこだいとしとそののうぎょうりょういき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふる]
 【名詞】 1. used 2. secondhand
古代 : [こだい]
  1. (adj-na,n-adv,n-t) ancient times 
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [みやこ]
 【名詞】 1. capital 2. metropolis 
都市 : [とし]
 【名詞】 1. town 2. city 3. municipal 4. urban 
: [し]
  1. (n-suf) city 
: [のう]
 【名詞】 1. farming 2. agriculture 
農業 : [のうぎょう]
 【名詞】 1. agriculture 
: [ごう, わざ]
 【名詞】 1. deed 2. act 3. work 4. performance
領域 : [りょういき]
 【名詞】 1. area 2. domain 3. territory 4. field 5. region 6. regime 
: [いき]
 【名詞】 1. region 2. limits 3. stage 4. level

ケルソネソス・タウリケの古代都市とその農業領域 : ウィキペディア日本語版
ケルソネソス・タウリケの古代都市とその農業領域[けるそねそす たうりけのこだいとしとそののうぎょうりょういき]

ケルソネソス・タウリケの古代都市とその農業領域(ケルソネソス・タウリケのこだいとしとそののうぎょうりょういき)は、ウクライナクリミア半島セヴァストポリ近郊に残る古代都市遺跡と周辺の農業遺跡を対象とするUNESCO世界遺産リスト登録物件である。「ウクライナのポンペイ」とも呼ばれ、かつてウクライナの紙幣の図案にも採用されたケルソネソスの考古遺跡は、黒海周辺に植民した古代ギリシアのポリスと、それを支えた農業領域の姿を伝えている点などが評価され、2013年第37回世界遺産委員会で登録された。
== 歴史 ==

ケルソネソス・タウリケ (Chersonēsos Taurikē)〔ケルソネソスは元来「半島」の意味。古代にはもうひとつトラキアのケルソネソス(ケルソネソス・トラキカ、現ゲリボル半島)が存在した。〕は、クリミア半島の古称「タウリカ半島」のことであるとともに、その中心都市の名前にもなっていた〔「ヘルソン」『世界大百科事典』改訂新版(平凡社、2007年)第25巻、p.617〕〔「ケルソネソス・タウリケ」『ブリタニカ国際大百科事典・小項目電子辞書版』(ブリタニカ・ジャパン、2011年)〕。現在のセヴァストポリ近郊に存在していた中心都市は、単にケルソネソス(ヘルソネソス)〔現在のウクライナの表記は「ヘルソネース」(Херсонес) である()。〕とも呼ばれる(以下、都市についてはケルソネソスと表記)。
ケルソネソスの歴史は、ドーリア人系の植民都市ヘラクレイアがその地に進出し、植民都市を建設した紀元前5世紀後半に始まる〔この定説化した見解に対し、1980年代以降の発掘調査の結果、紀元前6世紀末から前5世紀早期の植民についても議論されるようになっている。cf.〕。ボスポロス王国が勢力を伸ばす中、紀元前4世紀に入ったころに農業基盤を整え始めたケルソネソスは、世紀半ば以降、北西クリミア地域へとその農業領域を拡大し、ボスポロスとともにクリミアを二分する勢力へと成長した。ケルソネソスは交易上の重要な中継地点であり、ロシアの河川や北方の森林からの収穫物も含めた農林水産物や塩、コハクなどと、地中海世界の手工業製品とを交換していたことが、都市の繁栄を支えていた。そして紀元前3世紀は農業生産の最盛期でもあったと見なされており、それはケルソネソスの最盛期とも重なっている。しかし、その時期にはギリシアとスキタイの戦争が長期化しており、これが交易にも悪影響を及ぼしたことで、ケルソネソスの繁栄に翳りが見られるようになった〔。他方で、ケルソネソスはその後も一定の自治を保つことには成功している〔。4世紀以降にキリスト教が伝わると、ケルソネソスはそれを受け入れた〔。
ビザンツ帝国に編入されてからはケルソン(ヘルソン〔現在のドニエプル川流域の同名の都市とは別である。〕)の名前で史料に登場するが、そこではむしろ辺境の流刑地として言及が見られる。655年にケルソンへ追放されたローマ教皇マルティヌス1世、695年に失脚し、一度はケルソンに追放された皇帝ユスティニアノス2世などが、その例である。8世紀のケルソンは、宗主権を主張していたビザンツとハザールのいずれかに形式的に属していたと考えられているが、実質的な自治は保たれていたのではないかとされている。
9世紀にはビザンツ帝国のテマ(軍管区・行政区)が置かれ、ビザンツの前哨基地として機能した。また、そのころコンスタンティノポリス総主教庁に属する主教区がケルソンに置かれており、北方へのキリスト教布教の拠点ともなっていた。この時期から10世紀にかけては周辺諸国との通商や外交の面でも重要な役割を担っていたが、10世紀末にウラジーミル1世の侵攻を受けて大きな被害を受けた。さらに12世紀末以降にはイタリア商人の進出がケルソンの通商上の地位を下げ〔、ジョチ・ウルスをはじめとする遊牧民たちの攻撃にさらされ、15世紀ころには最終的に放棄された。
考古学的調査が行われるようになったのは19世紀半ば以降のことで、「ウクライナのポンペイ」の異名をとっている〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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