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ケント (Kent) はイングランドの地域で、ロンドンの南東にあり、ケント州 (the county of Kent, Kent county) とも呼ばれる。州都はメイドストーンである。ケントはイースト・サセックス、サリー、大ロンドンと接し、テームズ川中流にエセックスとのはっきりした境界がある。ケントには英仏海峡トンネルに沿ってフランスと名ばかりの境界が途中まであり、ケントという名前は、ケント王国から来ている。 ケントには市が2つあり、カンタベリー大主教のいるカンタベリーとロチェスター主教のいるロチェスターである。しかし、地方政府が再編された1998年からロチェスターは行政上の監督のできる市としての権限を失ったが、現在復活に向けた試みが行われている。その他の町は、下記の一覧表を参照のこと。 「イングランドの庭園」という渾名のためにケントは絵に描いたような田園州と思われているかも知れないが、農業経営は今も産業である。何世紀以上も他の多くの産業は重要であったし、今も重要なものがある。羊毛製の生地製造、製鉄、製紙、セメント、工学、以上全ては工業分野である。漁業と観光は(特に海岸のリゾート地で)多くの人が従事している。東部ケントの炭田は、20世紀に採掘され、ダンゲネスにダンゲネス発電所がある。それでもサネット地域はイングランド南東部の最貧地区の一つと考えられている。 フェリー港、英仏海峡トンネル、2つの自動車道は、ヨーロッパ大陸と結んでいる。マンストンとロチェスターに空港が、ヘッドコーンとリッドに小規模の飛行場がある。 ケントに住む有名人は、チャールズ・ディケンズとチャールズ・ダーウィンなどがいる。ウィンストン・チャーチルの家だったチャートウェルもケントにある。 ケントの史跡調査は、ヴィクトリア朝州史調査制度で制限されているが、広範囲にわたる調査は、1755年 - 1805年にエドワード・ヘイステッドにより50年以上にわたって行われた。ウィリアム・ランバルドは16世紀初期の作家であった。 ケントはケント紙の発祥の地である。またタバコのケントも同地に由来があるとも言われている。 テニス選手権の最高峰ウィンブルドン選手権で、優勝者を表彰するのはケント公である。 ==歴史== この地域はスワンスコンビ村の採石場の出土物が示すように前期旧石器時代から人が住んでいた。新石器時代にはメドウェイ巨石群が造られ、青銅器時代、鉄器時代、ローマ占領期と続いて豊かだったことは、リングミア塚やダレント川のローマ村のような出土物が示している。 現在のケントという名前は、現在の東部地区の名称として用いられる縁や境界を意味するブリトン語の''Cantus''に由来し、境界や海岸地区の意味である。ユリウス・カエサルは紀元前51年にケルト族の故郷を''Cantium''と呼んだ。 現在最も西の地区は、別の鉄器時代の民族(レグネンセス族と恐らくウィールドを支配していたもう一つの民族)が支配していた。東部は紀元5世紀にジュート王国のひとつで、後に730年頃には''Cantia''、835年には''Cent''として知られている(ケント王国)。中世の初めには住民はカンタベリーを都とする''Cantwara''やケント人として知られていた。 カンタベリーは英国国教会の中心地で、カンタベリーのアウグスティヌスの大司教館がある。アウグスティヌスは597年にこの地に即ちイングランドにキリスト教をもたらしたと信じられている。 ノルマンディー公ギヨーム(ウィリアム1世)のイギリス侵略後、ケント人は「不屈」を意味する''Invicta''を標語にしている。ケント人はノルマン人に対し抵抗を続け、1067年にケントを半自治のパラタイン伯領とする決定を引き出した。 中世にはワット・タイラーの乱と後年1450年のジャック・ケードの乱が起きた。トマス・ワイアットはメアリ1世に対して反乱を起こし、1553年にケントからロンドンに攻め入った。カンタベリーはトマス・ベケットの殉教後は大巡礼地になった。カンタベリーの宗教上の役割は、英語の書き言葉の発展の鍵となり表面上はケントの田舎で使われるチョーサーの『カンタベリー物語』を世に知らしめることになった。 17世紀までにイギリスとオランダやフランスといった大陸列強との緊張が、ケントの軍備増強につながっていった。1667年にオランダ海軍がメドウェイの造船所を奇襲してからは海岸沿いのあらゆる場所に砦を築いた。 第二次世界大戦ではケントの空軍基地が、民間施設が度々爆撃された英独航空戦で極めて重要な役割を担った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ケント (イングランド)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kent 」があります。 スポンサード リンク
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