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ケンプスランディングの戦い(、またはケンプスビルの小競り合い、)は、アメリカ独立戦争中の1775年11月15日に起きた小戦闘である。バージニア植民地プリンセスアン郡の民兵中隊が、近くのグレートブリッジで上陸した植民地最後の総督第4代ダンモア伯ジョン・マーレイが指揮するイギリス軍に対抗するために、ケンプスランディングに結集した。ダンモアはノースカロライナ植民地の愛国者民兵隊が到着するという噂について調査していたが、それが嘘だと分かったので、待ち伏せしようとしていたプリンセスアン郡の民兵隊に軍勢を向かわせてこれを破り、潰走させた。 ダンモアはこの勝利に続いてその宣言書を読み上げ、戒厳令を発し、愛国者主人に属する奴隷がイギリス軍に仕えるならば、その身分を解放すると約束した。このことで却ってダンモアに対する抵抗が増し、最後はバージニアを去るしかなくなった。 == 背景 == イギリス領バージニア植民地における緊張感は1775年4月に高まった。これは北のマサチューセッツ湾植民地でレキシントン・コンコードの戦いが起こり、アメリカ独立戦争が始まったのとほぼ同時期だった。植民地議会を支配していた愛国者(ホイッグと呼ばれた)側は同年3月までに徴兵を始めており、植民地の軍需物資の支配を巡って動き出していた。植民地総督のダンモア卿がウィリアムズバーグにあった倉庫から火薬を撤去するようイギリス軍に命じたので、愛国者側に警鐘を発することになった〔Wilson, p. 7〕。この事件は暴力沙汰無しに解決されたが、ダンモアは自身の安全が脅かされていることを怖れ、6月にはウィリアムズバーグを離れて、家族を海上のイギリス海軍艦船に移した〔Russell, p. 53〕。続いて港湾都市ノーフォークにイギリス海軍の小戦隊を結集させた。ノーフォークはロイヤリストの商人が多い町だった。この小戦隊による威嚇で、ノーフォークでの愛国者側の動きを抑える効果があった〔Russell, p. 55〕。 10月まで愛国者側とロイヤリストの間で事件が続いていたが、ダンモアは作戦を始めるために十分な軍事的支援を得られるようになった。愛国者側はウィリアムズバーグにかなりの数の民兵を集めた。北アメリカのイギリス軍総司令官であるトマス・ゲイジは、ダンモアからの要請に応えて、第14歩兵連隊から小さな派遣部隊をバージニアに送るよう命じた。10月12日、この部隊が愛国者側軍需物資のある周辺郡部への襲撃を始めた〔Selby and Higginbotham, p. 62〕。この動きは10月一杯続いていたが、ハンプトン近くで起きた小競り合いのときに、小さなイギリス艦船が座礁し、愛国者側に捕獲された。ハンプトンの町民に懲罰を与えるために派遣されたイギリス海軍艦船は、大陸軍と民兵合同部隊との小競り合いで撃退され、幾人かの水兵が殺されまた捕虜になった〔Russell, p. 68〕。この出来事に反応したダンモアは、11月7日に宣言書を書き上げ、その中で戒厳令を宣言し、進んでイギリス軍に仕えようという愛国者主人に属する奴隷には身分を解放すると約束していた〔Wilson, p. 8〕。ダンモアはこの宣言書を即座に公開しなかったが〔、奴隷を徴兵してエチオピア連隊を編成することができ、また女王のロイヤル・バージニア連隊と呼んだロイヤリスト中隊を立ち上げることもできた。当時バージニアでは唯一のイギリス軍正規部隊だった第14歩兵連隊の2個中隊をこれらの地元部隊が補うことになった〔Wilson, p. 9〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ケンプスランディングの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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