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ケン・パテラ : ミニ英和和英辞書
ケン・パテラ[てら]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

テラ : [てら]
 【名詞】 1. tera- 2. 10^12, (n) tera-/10^12

ケン・パテラ : ウィキペディア日本語版
ケン・パテラ[てら]

ケン・パテラKen Patera、本名:Kenneth Wayne Patera1942年11月6日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーオレゴン州ポートランド出身。
オリンピック重量挙げ出身のパワーファイターとして、NWAAWAWWE(WWWF / WWF)の各団体で活躍した。
== 来歴 ==
1960年代から1970年代初頭にかけてウエイトリフティングの選手として活躍し、1972年ミュンヘンオリンピックにアメリカ代表で出場。レスリングの下地もあったことから、同じくオリンピック出身者であるAWAバーン・ガニアにスカウトされてプロレスラーに転向〔『THE WRESTLER BEST 1000』P185(1996年、日本スポーツ出版社)〕。同期にはリック・フレアーコシロ・バジリらがいた。1973年1月には国際プロレスに初来日、ミスター珍稲妻二郎などの中堅・若手選手相手のハンディキャップ・マッチも行っている〔『Gスピリッツ Vol.33』P88(2014年、辰巳出版、ISBN 477781372X)〕。
以降もアスリート系のベビーフェイスとして各地を転戦、1974年7月22日にはテキサス州フォートワースにてテキサス・マッケンジーと組み、ザ・ブラックジャックスからNWAアメリカン・タッグ王座を奪取した。その後もジョージアノースカロライナなどNWAの主要テリトリーに出場したが伸び悩み、髪を金髪に染めてヒールに転向。中南部のNWAトライステート地区(後のMSWA)ではキラー・カール・コックスのパートナーとなり、1976年10月19日にボブ・スウィータン&ランディ・タイラーを下して同地区認定のUSタッグ王座を獲得した。同年よりWWWFに進出、翌1977年1月17日と2月7日、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにて、ブルーノ・サンマルチノWWWF世界ヘビー級王座に連続挑戦している。
1977年10月、全日本プロレスに来日。WWWFでの実績を見込まれシリーズの注目外国人として迎えられ、10月21日に横浜文化体育館にてボボ・ブラジルと組み、ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田インターナショナル・タッグ王座に挑戦、10月24日には岩手県営体育館にて馬場のPWFヘビー級王座にも挑んだ。
1978年からはジム・クロケット・ジュニアミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリングジム・バーネットジョージア・チャンピオンシップ・レスリングエディ・グラハムチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダなど、南部のNWA圏を転戦。フロリダでは1978年1月25日に開催されたスーパーボウル・オブ・レスリングのセミファイナルでダスティ・ローデスと対戦、ミッドアトランティック地区ではリック・フレアー、マスクド・スーパースタービッグ・ジョン・スタッドらとタッグを組み、ワフー・マクダニエルブラックジャック・マリガンジミー・スヌーカポール・オーンドーフリッキー・スティムボートなどのトップスターと抗争した。
1980年は再度ニューヨークに登場、WWFヘビー級王者のボブ・バックランドに挑戦する一方、同年4月21日、MSGでパット・パターソンを破りWWFインターコンチネンタル・ヘビー級王座を獲得。第2代の王者となる。並行してNWA圏にも参戦し、4日後の4月25日にはミズーリ州セントルイスキール・オーディトリアムケビン・フォン・エリックからミズーリ・ヘビー級王座を奪取。当時のNWAとWWFの実質的なナンバー2タイトルの「二冠王」となった〔(ミズーリ王座は11月21日にテッド・デビアス〔、IC王座は12月8日にペドロ・モラレスに敗れるまで保持〔)。
1980年9月、WWFとの提携ルートで新日本プロレスへの来日が実現。9月30日に日本武道館で開催されたビッグイベントにおいて、新日本での初戦ながらアントニオ猪木NWFヘビー級王座に挑戦、怪力殺法で猪木を追い込んだ〔。以降も新日本プロレスに度々参戦し、NWFタイトルには1981年2月4日にも大阪府立体育館で再挑戦している。同年10月23日にはセントルイスにてジャック・ブリスコを破り、ミズーリ・ヘビー級王座に返り咲いた〔。
1982年からはAWAに復帰し、WWFや新日本プロレスでも共闘していたボビー・ダンカンブラック&ブルー・エクスプレス(''The Black & Blue Express'')なるタッグチームを結成。ボビー・ヒーナン率いる「ヒーナン・ファミリー」の一員としてダンカンと共にAWA世界王者ニック・ボックウィンクルをバックアップし、当時AWAの新時代のエースとして人気が沸騰していたハルク・ホーガンアンドレ・ザ・ジャイアントと抗争を展開した。また、AWAでの活動と並行して、提携団体であるテネシー州メンフィスCWAにも出場。ジェリー・ローラーオースチン・アイドルとCWAインターナショナル・ヘビー級王座を争った。
1983年より、当時のAWAでヒーナンと並ぶヒールのマネージャーだったシーク・アドナン・アル=ケイシーの「ザ・シークス」に加入。アラビアに魅せられた白人「ローレンス・オブ・アラビア(''Lawrence of Arabia'')」を名乗り、中東風のベールを被るなどシーク・スタイルへの一時的なギミック・チェンジを果たす。6月26日にはシーク・アヤトーラことクラッシャー・ブラックウェルとのコンビでグレッグ・ガニア&ジム・ブランゼルのハイ・フライヤーズを破り、AWA世界タッグ王座を獲得した。
1984年5月、新日本プロレスへの4度目の来日を果たし、IWGPリーグ戦第2回大会に出場。リーグ戦ではアンドレ・ザ・ジャイアント、マスクド・スーパースター、ディック・マードックアドリアン・アドニスとも対戦したが、新日本初登場時のような活躍は見られず、戦績は芳しくなかった。帰国後の7月、ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下で全米進出を行っていたWWFと再契約。ここでもヒーナン・ファミリーに加入し、NWA以来の盟友ビッグ・ジョン・スタッドとのタッグを再結成するが、AWA時代の同年4月6日にウィスコンシン州で起こした器物損壊(閉店していたマクドナルドに入店を断られて逆上し、店のウィンドウに岩を投げつけて破壊)に端を発する警官暴行の罪で、約2年間に渡って服役することになる(マサ斎藤もこの事件に巻き込まれ、1年6カ月間の懲役刑を受けている)〔。
服役後は囚人ギミックによるWWF復帰も噂されたが、最終的にはデビュー当時と同じベビーフェイスとして1987年4月にカムバック。髪も本来の栗色に戻し、気は優しくて力持ち的なキャラクターとなってハーキュリーズディノ・ブラボーと抗争、サバイバー・シリーズの第1回大会ではハルク・ホーガンのチーム・メイトも務めたが、全盛期のような活躍は果たせず、1988年11月にWWFを離れた。
その後は古巣のAWAにて、ブラッド・レイガンズオリンピアンズ(''The Olympians'')なるオリンピック・コンビを結成。1989年3月25日にはバッド・カンパニー(ポール・ダイヤモンド&パット・タナカ)を破りAWA世界タッグ王座を再び獲得している〔。1990年カリフォルニア州マリナ・デル・レイのハーブ・エイブラハム派UWFに出場し、カムバック後のWWFでタッグを組んでいたビリー・ジャック・ヘインズと抗争。1991年の末にはオットー・ワンツが主宰していたドイツオーストリアのCWAに遠征、12月21日にブレーメンにてランボーのCWA世界ヘビー級王座に挑戦した。以降、1990年代ミネソタ近辺のインディー団体にスポット参戦していた。
2011年8月12日、ジャガロ・チャンピオンシップ・レスリングのイベント "Legends & Icons" に出場してボブ・バックランドと対戦、公の場に久々に姿を見せた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ケン・パテラ」の詳細全文を読む




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